2010/06/01

沖縄の現状を想う・第一空挺団降下訓練

 陸上自衛隊習志野駐屯地は千葉県船橋市に位置する。駐屯地には第一空挺団が置かれている。気象状況の良い日を選ぶのであろうか、晴れて穏やかな日にはC1型輸送機など、迷彩を施した巨大な飛行機がわが街八千代市の上空で幾度となく旋回を繰り返す。時には大型ヘリコプターが行き交うこともある。

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 いつも、ほぼ決められた位置でパラシュートが降下する。まるで可憐な花が開くように、太い機体から、一つ一つ飛び出してくる白い落下傘は青空に映えて美しい。朝から飛行機の爆音が響き渡ると「今日も青空散歩だな、訓練ごくろうさん」と、それほど爆音も気にならない。

 沖縄の現状はテレビでしかみたことはないが、その凄まじさはこちらでは想像もできない様子だ。臨戦態勢を想定した戦闘機やヘリの訓練では、その規模や頻度も桁外れに違えば、危険度も他地域とは比較にならないことが容易に想像される。

 敗戦に引き続いた占領時代を含めて戦後60余年、常に米軍の駐留を余儀なくされてきた沖縄の人々の心中は察して余りある。我が国の安全・防衛は、国民一人ひとりが公平に負担すべきものである。政府は安全保障のあるべき原点に立ち返って、早期に沖縄問題の解決に対応してもらいたものだ。

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2009/05/08

寄生虫駆除・検便

 引出しを整理していたら、60年前(中学1年の時)の学校新聞が出てきた。新聞といっても物資不足の当時のこと、一文字、一文字が鉄筆で刻まれた謄写版刷りである。当時のわら半紙はすでに褐色に変色して判読もなかなか困難である。

 ほやほやの一年生ながら、校内新聞部に所属していた頃だ。1948年(昭和23年)11月26日号の週報のトップ記事の見出しには、「100人中87人以上が寄生虫を持っている!」とある。11月6日に市(京都)の生活科学研究所によって実施された寄生虫検査の結果を伝えた記事である。

 終戦後3年余が経過していた。小中学校の生徒の健康管理については特に寄生虫駆除と結核予防に力が込められていたと記憶する。そのために検便やツベルクリン反応検査が全国的に実施されていた。今日では、検便、すなわち大腸検査は大腸などの消化器官からの便潜血反応を調べることが主たる目的であろう。

 検体(早く言えば便)は、氏名、学年、組を明記した空のマッチ箱に入れて提出するというもの。小学生の時はともかく、中学生の年齢に達した男女共学のなかでは、特に女子学生にとっては憂鬱なイベントであったらしい。

 寄生虫についていえば、なにしろ当時は農作物用の化学肥料などはほとんど用いられることはなく、戦中から引き続いていわゆる下肥(し尿)が用いられていたのだから、殆んどすべての日本人が寄生虫卵保有者であったことは頷ける。50歳以下の人々にとっては信じがたいことであろう。

 記事によれば1年生(84.5%)、2年生(90.0%)、3年生(89.5%)が、回虫、鞭中などの保持者である。学校では定期的に煎じ薬やサントニンなどの駆虫薬が配られたような記憶がある。

 ところで、化学肥料が普及し、ハウス栽培や水耕栽培が普及している現代、小中高校では寄生虫検査のための検便などはやっているのだろうか、その頻度や方法は、回虫・鞭虫・蟯虫などの保有率はどうなっているのか。尾籠な話になってしまったが、そのような愚にも付かないことに思いを致している。

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2009/01/09

マジ、マジっすか

  若者言葉(わかものことば)というものがあることを改めて知った。

 「コーヒーとか飲みません?」、クロークでは「お荷物のほうお預かりしましょうか?」、レストランでウエイターが注文の料理を運んできて「こちら鉄火丼になります」。おいしければ「この味、ヤバいっす」、「私って三度の食事よりもお酒の好きな人じゃないですか」などなど・・・・・

 相手の説明に対して「そうなんだァ」というのは、「そうですか?」という確認と「そうなのだ」という自身の納得の意を同時に示すものらしい。「ぶっちゃけ」・・・なんていう表現もあるようだ。

 二、三か月前のテレビニュース。マンションの自室で大麻を栽培していた有名私立大学の学生が、大麻取締法違反で厚生取締官のグループに踏み込まれた場面。事件の反社会性、違法性はさておくとして、その瞬間の学生の発した言葉は「これ、マジっすか?」であった。ここまでくると、言葉だけの問題ではなくなってしまう。

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2008/10/22

コスタリカ - ひとつの異文化体験

 十年ほど前、JICA(現・国際協力機構)の短期専門家として、中米のコスタリカに滞在したことがある。日本政府が行う海外技術協力プロジェクトを支援するために幾度か往来した。滞在が一か月以上に及ぶこともあった。コスタリカは中米の優等生、軍隊を持たず教育を重視する政策をとっている。

 現地支援先の拠点は、日本政府がその創設を支援した生産性・経営開発指導機関であった。産業開発指導、専門家の育成、必要機材の供与などがプロジェクトの目的であった。 滞在期間が長期に及ぶ時には、所長室に隣接して自分の事務室を確保し、事務機器などを準備をしてもらう。そこが自分のオフィスとなる。事務室や講堂、実験室、教室等からなる建物は、ラテン特有のパティオを持つオープンな設計になっている。

 所長の秘書がこちらの事務補助を兼任してくれる。陽気なコスタリカの有能な「女の子」である。特有の開放的な設計ゆえに、廊下とも室内とも区別がつかないようなオープスペースに所長秘書はデスクを置いている。

 赤道に近いとはいえ、高地の首都サン・ホセは常春の陽気。一年中ブーゲンビリアなどの花々が咲き乱れている。時には大きなイグアナがのっそりと中庭に散歩に出てくる。小鳥たちも遊びに来る。のんびりした風土である。 そんな中米の人々は、老若男女、みな陽気である。ちょっと音楽が聞こえてくればすぐに拍子をとって踊りだす。

 さすがに日中の気温は多少上がり気味。開け放たれたドアを通して、流行りの陽気なサルサとかメレンゲとかいう中米特有のリズムが遠慮なしに侵入してくる。秘書のデスクには自前のミニコンポが置いてある。若い秘書は体をゆすりながら毎日の仕事が楽しそうだ。

 こちらはあまり気にもならないのだが、日本からの同僚が異議を唱えた。執務中の音楽をやめさせるようにと所長に申し出た。所長の顔は一瞬困惑気な表情に変わった。その秘書が終日音楽を聴きながら執務していることは全く自然なことであり、所長にとっても、百数十人いるスタッフにとっても特段に異例なことではなかったのだ。

 結局、我が同僚が妥協することになった。この一件は若い秘書に伝えられることもなく、彼女はその後も終日音楽を楽しみながら忠実に業務を果たしていたのだった。現役時代にしばしば訪れたフィリピンでも同じような体験をしたことを思い出した。異文化体験のひとつであった。

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2008/10/02

マツタケ・まつたけ・松茸 (1/2)

 マツタケの季節が近づいてきた。産地に隣接する故郷の京都市内でも、化粧箱に収められた見事なマツタケが、錦小路の市場やデパートの店頭に並べられる。値段が一本1万円~2万円と聞いてもことさらに驚くこともない。欲しい人にとっては、それだけの希少価値があるということだろう。

 調べてみると、1940年代のマツタケの生産量は1万トンであったが今日では、せいぜい100トンがやっとらしい。

 昭和20年の秋、すでに戦争は終わっていたのだが、まだ、市内の親元には戻らず、学童疎開先の丹波(現・亀岡市)の山村に残留していた。当時、周辺の山に入ればマツタケはいくらでもあった。

 疎開先のおじいさんは、毎朝早くに起きて小一時間ほどかけて裏山をひと回りする。やがて腰に下げた竹かごをシメジやマツタケでいっぱいにして戻ってくる。シメジは朝の味噌汁の実になる。マツタケは、時には直火で焼いて醤油をたらし、それだけをご飯のおかずにして食べることもあった。

 近年マツタケの生産は激減してその市場価格は高騰するばかり。韓国、中国はおろか、北欧、アメリカ、カナダ産までが輸入されているらしい。

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2008/07/20

昭和は遠くに

 ハグロトンボを見かけなくなって久しい。薄い漆黒の大きな翅に細い金緑色の胴体を持つ美しいトンボである。一体彼らは何処へ行ってしまったのか。

 ふるさと京都での子供の頃、真夏日の続く7月、8月、庭の植え込みの中を歩くと、木の葉っぱなどに身体を休めている無数のトンボ達が、いっせいに飛び立って、こちらの身体に当たりながら、シャカシャカと軽やかな羽音を立てたものだ。 

 時期的には盂蘭盆の頃。我が家ではこれを「おせらいトンボ」と呼んでいた。「おせらい」とは「お精霊」のこと。京都ではお盆に帰って来るといわれる精霊を「おしょうろうさん」とか「おせらいさん」と呼んでいた。この頃はどこの家でも墓掃除、仏壇の飾りつけ、迎え火・送り火など仏事に追われる。

 うだるような昼過ぎ、北・西に開け放たれた部屋に寝そべって昼寝する。周りは蝉の大合唱。暑いながらも、時々涼風がすだれ越しに部屋を抜けていく。出入りの植木屋も弁当を使ったあとはしばしの昼寝。座敷の縁側で印半纏姿のまま大鼾をかいている。

 こんな夏の午後には、近所の道や路地に人影もなく、町内全体が妙に白っぽく眩しく感じられる。蝉時雨の静寂の中、どこからともなく浪曲を唸るラヂオの音が。遠くでアイスキャンデー屋の叫ぶ声も聞こえて来る。

夜には蚊取り線香を焚きながら、乾いた匂いのする蚊帳に素早く潜り込む。遠くに聞こえる盆踊りの音頭にちょっと未練を残しながら眠りにつく。

 今は便利ずくめの都会のマンション暮らし。そんな昭和も遠くなった。

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2008/06/25

京都・四条烏丸の今昔

最近、偶然ながらインターネット上で思い出深い懐かしい曲に再会した。それはアメリカの往年の名トランペッター、ハリージェームズのSleepy Lagoonである。

 昭和23、4年頃であったか、中学校で初めて英語を学び始めた頃であった。占領下の当時は東京・日比谷の総司令部に加えて、京都にも米軍司令部が置かれていた。場所は、四条烏丸の交差点・南西側。旧丸紅の「大建ビル」を接収したものであった。険しい顔つきで警備に立つMPの姿や、軍用ジープなどが頻繁に出入りする様子がが60年後の今日でも目に焼きついている。

 その交差点に佇んでいたとき、突然、拡声器から大音響で流れてきたのがこの曲であった。こんな背景の中でなぜ突然けたたましいトランペットが流れてきたのか、その後も聞きなれないジャズなどが拡声器で流されていたものだ。苦しい戦争が終わり貧しい戦後の真っ只中にいた日本人には、これは極めて奇異な風景にも思われただろうが、子供心にはこれがアメリカなんだという一種羨ましさと憧れの念がわいてきたのだった。

 司令部の向い側には、やはり四条通に面してアメリカ文化センターが、これも接収されたビルの中に置かれていた。図書室の書架には子供向けの童話や漫画も並べられており、日本人への貸し出しも行われていた。恐る恐るドアを開けて入ってみると、そこはアメリカそのもの。と言っても敗戦当時の日本少年がアメリカを知るはずも無かったのであるが・・・

 館内は英語の標識が見られ、アメリカ人スタッフの話声が聞こえてくる世界であった。チョコレートやチューイング・ガム、ラッキーストライクなどに代表されるアメリカの豊かさを見せつけられていた当時の日本人にとっては、まさに治外法権の別世界であった。スタッフのアメリカ人女性が貸し出証(今でいうIDカード)を親切に発行してくれた。もちろん書いてある英語は理解できないのだが、なにか大きな特権を得たような満足感があった。

 立派な図書室では、非番らしいGIが漫画や新聞を読んでいたりする程度であまり多くの人を見かけることはなかった。まして日本人の子供の出入りなどは極めて希であった。おかげでアメリカ人女性スタッフにもすぐ顔を覚えてもらうことができた。

 今は、すっかり暗渠になってしまった堀河、当時はまだ路面電車が悲鳴のような音を立てながら河畔を走っていた。河に沿って闇市があり、中古の鍋や釜、古着など、あらゆる種類の日用品を拡げていた。帰り道には縁日気分で時間をかけて物珍しそうに覗きまわったりしたものだ。

 四条烏丸の交差点を北に向って数百メートル、烏丸通りに沿って西側に「烏丸映画劇場」なる映画館があり、殆ど毎週末には「洋画」(アメリカ映画)を見に行ったのも丁度この頃であった。

 当時の司令部「大建ビル」(昭和13年・1938年竣工)は、現在はすっかり改装なり店舗、飲食店、シアター、オフィスなどが入居して、複合商業施設のCOCON KARASUMA(古今烏丸)として活躍しているらしい。毎年、祇園祭で賑わう7月には、交差点の東側に長刀鉾が聳え立ち、街をゆ人々に本格的な夏の到来を告げている。

@因みにハリー・ジェイムズ(Harry James)は、1916年、米国ジョージア州生まれ。10歳の時から、サーカス団のバンドリーダーであった父からトランペットを学び始めた。30年代半ばベニー・グッドマン楽団に所属したこともる。グレン・ミラーとも同世代。1939年自身のバンドを率いてペンシルベニア州フィラデルフィアでデビュー。1939年には歌手としてフランク・シナトラも参加。スリーピー・ラグーン(Sleepy Lagoon)は1942年に大ヒット。 1983年没。

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2008/04/30

「昭和の日」

 4月29日が「昭和の日」と呼ばれるようになったことをすっかり忘れていた、と言うよりは知らなかった。「天長節」とは言わないまでも、昭和天皇の誕生日という認識は容易に変えることはできない。それほど昭和どっぷりの世代である。

 昭和10年は西暦1935年、大変区切りの良い数字である。西暦年度から25を差し引くことにより昭和の年度が容易に計算できたものだ。今でも家人と「昭和」を用いることが少なくない。例えばわが家では今年は「昭和83年」である。

 戦中派、戦後派などという分類は必ずしも正確ではない。例えば一部の昭和初期生まれの世代には、軍隊経験を含めた戦争体験がある。我々には戦時体験はあっても軍隊経験はない。

 昭和の日に因んで、新聞、ラヂオ、テレビなどが多彩な番組を提供していた。戦後を含めた昭和期の激動に改めて想いを馳せた一日であった。たった60年余の短い間におこった国際情勢の変転や科学技術の進歩は人類全体に大きな影響を及ぼした。

 同じ昭和生まれであっても、その経てきた時代は同一ではない。世代によって大きく異なる。我々よりも10年遅れて生まれてきた戦後世代、団塊世代の体験は我々のそれと同じではない。

 個人的体験はそれぞれが育った生活環境や条件によって異なることは言うまでも無いが、昭和の日を迎えて戦中戦後の一時期を雑然と振り返ってみたら以下のような事柄が頭に浮んできたが、皆さんはどうだろう。

●昭和17年(国民学校入学)~20年

アカイ アカイ アサヒ アサヒ、ハト コイ コイ、ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ、ヘイタイサン ススメ ススメ

大東亜戦争、小国民、宮城遥拝、勅語、天皇陛下万歳、御真影、武運長久、慰問袋、千人針、出征・入営、伏見練兵場、皇軍、隣組、現御神(アキツミカミ)、米英鬼畜、トルーマン、蒋介石、チャーチル、ヒットラー、ムッソリーニ、欲しがりません勝つまでは、贅沢は敵だ、撃ちてし止まむ、一億一心、農兵隊、予科練、幼年学校

大本営、参謀本部・軍令部、聯合艦隊、山本五十六、中部軍管区情報、敵機来襲、空襲警報、警戒警報、灯火管制、防空頭巾、用水桶、火タタキ、砂袋、竹槍、集団疎開、縁故疎開、艦載機、グラマン、ボーイングB29、艦砲射撃、機銃掃射、轟沈、撃沈破、代用食、食糧増産、開墾、配給、衣料切符、国防婦人会、戦闘帽、国民服、モンペ、国防色、玉砕、学徒動員

高天原、豊葦原の千五百秋の瑞穂の国、天孫降臨、猿田彦命

紀元節、天長節、地久節、明治節、新嘗祭、神嘗祭、大詔奉戴日

バイ(ベーゴマ)メンコ、独楽、イカ(凧)、チャンバラごっこ、日光写真、模型飛行機、円錐壕、水練学校、武徳会、のらくろ、ススメフクチャン

●昭和20年(国民学校4年)~23年(小学校卒業)~26年(中学卒業)~

進駐軍、マッカーサー元帥、鈴木貫太郎、幣原喜重郎、片山哲、吉田茂、闇市、買出し、学校給食、脱脂粉乳、欠食児童、栄養失調、傷病兵士、新円・旧円、引揚げ船、復員、尋ね人の時間、かえり船、軍隊毛布、DDT、街頭演説、乾パン、放出物資、新制中学、東京ブギウギ、鐘の鳴る丘、靴磨き、帝銀事件、下山事件、三鷹事件、松川事件、朝鮮戦争、リッジウエー中将

●昭和29年(大学入学)~

お富さん(春日八郎)、第五福竜丸、鳩山一郎、力道山、洞爺丸、石原慎太郎、慎太郎刈り、名曲喫茶、名画座、新劇、特急つばめ号、外食券食堂、賄い付き下宿、太陽族、マンボ、ツイスト、etc., etc., etc.・・・・・・・・・

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2007/12/02

落穂ひろい(16)学校給食・一杯の味噌汁

  学校給食について調べてみた。戦争がますます激しくなり、わが国にとって形勢不利が決定的となっていた昭和19年(1944)3月3日、政府は「決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件」を閣議決定している。

 その中身は、①実施区域は「現下ノ食糧事情ニ鑑ミ」6大都市とする、②実施開始は19年4月1日、③給食内容は、米、代用食、パンを含む昼食とする、等々であった。

 記憶を辿れば、昭和20年3月に京都市内の国民学校から丹波の山村(現在の京都府亀岡市)に転校疎開するまでは、昼食時には主としてコッペパンと味噌汁の給食を受けた。大豆の絞り粕(豆かすと称した)や高粱を混ぜたご飯が出ることもあった。食事中に敵機接近を報せる「警戒警報」のサイレンが不気味に鳴り響くことがあった。こんな時には、一気に味噌汁を飲み込んで、食器のお椀と食べ残しのコッペパンを給食袋に詰め込んで、教室の床下に潜り込んだり、ときには集団で家に向って一目散に駆け出したりしたものだ。

  「食糧増産」の掛声のもとに、都市部の利用可能な土地はすべて畑と化したのはこの頃からであった。個人宅地の庭、校庭、川の土手なども田畑に転用、そして荒地の原野や山林の開墾などもとどまるところがなかった。植えたものはサツマイモ、カボチャ、大豆など手当たり次第、70歳以上の人でサツマイモの蔓を食べた記憶のある人は少なくないだろう。「食べられる野草」に関する印刷物も配られた。

 終戦後、再び市内の学校に戻った。戦時中に中断した学校給食が復活したのは昭和22年(1947)1月という記録がある。因みに国民学校の呼称が廃止されて小学校となったのは昭和22年4月、私が6年生になったときであった。したがって戦後のほぼ1年間は小学6年生として学校給食を受けたことになる。

 戦後の数年間は激しい食糧難が続いた。特に米軍の爆撃を受けた被災者家族や、中国大陸や朝鮮半島などの外地からの引揚者は極度の欠乏に呻吟していた。そのような家庭にとっては復活した学校給食は大きな救いであっただろう。

 或るときクラスの生徒の一人が病気で学校を休んだことがあった。昼の給食時に生徒の母親がお椀の入った給食袋を持って学校にやってきた。お昼の給食の時間になるまで、遠慮がちに窓の外で待っていたようだった。やがて当番の生徒の一人からコッペパン一個を受取り、お椀に入れてもらった一杯の味噌汁を金属の弁当箱に移し替えた。それらを小さな風呂敷に包んで、こぼさないようにと注意を払いながら静かに去っていった。その姿は60年ほど経った今日でも忘れることができない。

 東京の大学に入学したのは昭和29年(1954)、大学の近辺や街には外食券食堂があった。その都度回数券のような外食券を渡すことによって米飯提供が受けられた。旅館や山小屋で食事をするにも、それに見合う米を持参する必要があったのもこの頃だった。当時、厳冬季の街中に餓死者や凍死者が出たことが報じられてもそれほど珍しいことではなかった。

 そして今は「飽食の時代」といわれる。肥満、過食、拒食、ダイエット、メタボ、グルメ、三ツ星レストラン・・・・

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2007/06/20

落穂ひろい(9)青春

 青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ・・・・・・・年を重ねるだけでは人は老いない、理想を失うときに初めて老いがくる。(岡田義夫訳)

 Youth is not a time of life; it is a state of mind・・・・・・ Nobody grows old merely by a number of years.  We grow old by deserting our ideals.

 上記はアメリカの教育学者でもある詩人サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman)による「青春」(Youth)の一部だ。

  お手軽で申し訳ないがよく引用させてもらう。歳を重ね、病を得ても、かくありたいと言う気持ちを持ち続けるためには、手っ取り早いガイドラインとなり、また、自分自身への励ましにもなる。越し方を振り返りながらも、見ぬ行く末には希望を持ちたいものだ。そんなことを考える今日この頃である。

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