2008/03/10

落穂ひろい(23)古いパスポート(旅券)

 現在、旅券(パスポート)を持っている日本人は数千万人に及ぶ。(平成17年12月28日現在、有効旅券発行数は約3500万冊、日本人の4人に1人が所有しているらしい)。

 平成17年の旅券発行数は約364万3000冊。取得者は20歳代が26.8%、19歳以下が22.2%、30歳代が15.8%、50歳代が12.8%。男性が47.8%、女性が52.2%。(外務省領事局発表の統計による)。

 というわけで、年間の海外渡航者数が約1700万人の今日、若者や大人の大半がパスポートを持っているということになる・・・・・・

 有効な旅券を持たなくなってから2年が経過した。ということは、現在パスポートが手許に無いということである。こんな状況は40年来なかった事である。

 初めての海外渡航は昭和41年(1966年)2月の米国への業務出張であった。当時は、海外観光がやっと自由化されたばかり、年間の渡航者数は約16万人、それも大半が業務目的であった。

 観光目的の外貨持ち出し限度額が500米ドル(18万円)という制限があり、それを超える業務費等の持ち出しには、事前に日銀の特別許可を申請する必要があった。 

 現在は、原則として誰でも10年間有効な数次旅券が簡単に取れるが、当時は特別の理由が無い限りは一次旅券が普通であった。

 40余年間の国際業務を離れた現在、手許には25冊の古い旅券が残っている。すべて「無効化」を示すVOIDの打ち抜きが施されている。一次旅券、数次旅券、公用旅券などいろいろ。添付されている自身の顔写真を見ていると、その歳月の変遷が実感される。

 初期の旅券は、表紙の色はブルー、サイズは現在のものよりかなり大きめの大型手帳程度。胸ポケットにも入らずに携帯にも不便。米国や大半の国々の小型旅券が羨ましかったものだ。

 表紙が緑(モスグリーン)の公用旅券、これは国際技術協力要員として業務出張や国際会議に出席した際のもの。いわば臨時の公務員としての出張であった。

 近年になって、一般旅券の表紙の色は赤、サイズも国際標準の小型に、数次旅券も簡単に取得できるようになり、旅券は極めて身近なものになった。運転免許証と同様に身分証明書としての市民権も得るようになったようだ。

 「VOID」と刻印された古い旅券には、それぞれ渡航先である国々のビザ(査証)が示されている。また、渡航先での出入国を示す空港名や国名のスタンプが押されている。日本への出入国に際しては、法務省入管の出国・入国が記録されている。

 古い旅券を見るともなしに見ていると、その時々の様子が少しずつ蘇ってくるものだ。現役時代の緊張感から解放されて、漫然と昔の日々を思い出している今日この頃である。もう新しいパスポーポートを手にすることもないだろう。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html

2008/02/09

落穂ひろい(10)飛行機のこと(不眠症)・再転記

  どちらかと言えば不眠症の性質である。本編にも記したように、「国際芸術見本市」(ジャパン・アート・フェスティバル)に関わった4年間は、まさに出張に次ぐ出張の連続であったが、勤務先が変わった後の35年間もやはり海外出張が続いた。殆ど毎年、時には二度三度も。そしてホテル生活。そんなわけで飛行機の旅とホテルでの生活は否応なしであった。

 機内で眠ることに得意な人と、不得手な人がある。これまでに、ぐっすり眠ったという満足感を得たことはまずない。もっとも、これは機内だけではなく、当時は旅先のホテルでも不眠症に悩まされたことは、本編の元となった「古い日記」の其処此処に記しているとおりである。街のドラッグストアで睡眠薬をもとめたり、夜中に目覚めて朝まで小説や雑誌を読んだりしたこともしばしばあった。

  機内では、絶え間ないエンジンの音が徐々に意識を麻痺させるのか、朦朧とした頭の中で際限の無い思考を繰り返す。旅先でのこれからの仕事のことや、まだ見ぬ将来のことに始まって、果ては数々の思い出など、とくに遠い幼少の頃の記憶、故郷の四季や懐かしい折々の行事、そして家族や今はとっくに亡くなった親族や先祖のことなどにまで思いを馳せる。結構楽しい時間つぶしになる。

 同時に適当にチャンネルを切り替えながらヘッドフォンからの音楽も受け容れる。クラッシック、ジャズ、ポップス、演歌・・・時間を経て頭はますます疲労し朦朧としてくる。 

 或る時期(1967年頃)から、日本航空では城達也のナレーションによるジェット・ストリームが流れるようになった。これも、高度一万メートルの雲海飛行を実感しながらジェットエンジンの振動に身をゆだねる。心地よい眠りを誘ってくれたものだった。そういえば昨年はその40周年にあたるとのこと。そして現在のナレーター(パイロットと言うのか)は伊武雅刀であるとか。

 近年では機内の映画も楽しみのひとつに。懐かしい名画に始まって、セントバーナードが主人公の「ベートーベン」やイギリス喜劇「ミスター・ビーン」に初めて遭遇したのも機内であった。

 種々の旅行グッズが売り出されるようになった。耳栓、アイマスクはおろか、果ては首を固定するための、水泳用の浮き輪に似たものまでが。確かに、狭い座席ではどう工夫をしても寝心地が良いわけは無い。時には二つ、三つの枕を当ててみたり、体の向きを変えてみたりしての悪戦苦闘が続く。

 最近では、運動不足と歳のせいか、また不眠に苦しむことが多い、と自分では思っているのだが、どういうわけか家人からは、いびきの大きさを指摘されている。一度でいいから、大きいいびきをかく位に深い睡眠をと自分では願っているのだが。考えてみれば、シャワーを浴びてパジャマに着替え、静かな自宅の100%フラットなベッドに横たわれることに比べれば、機内のファーストクラスも物の数ではない、毎晩が超デラックスクラスの飛行なのだ、と自分を慰め納得させながら不眠症と闘っている。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html

2007/10/07

落穂ひろい(15)贅沢な旅行

 先週は軽井沢、上高地へ2泊3日のドライブ旅行をした。

 殆ど毎年訪れる軽井沢はさっと回り昼に蕎麦を味わう程度にして、久しぶりに小諸の懐古園を訪ねた。浅間山は、いまひとつの天候にも関わらずその雄大な山容を時々は見せてドライビングを楽しませてくれた。

 この季節の懐古園は訪れる人も少なくひっそりと静まり返っていた。古城の苔むした石垣は、眼下に千曲川を見下ろす緑の丘陵と相俟って、いやがうえにも藤村の「千曲川旅情のうた」を思い出せる。日本の歴史や文化の豊かさ懐かしさを満喫させてくれる。それぞれの国に、それぞれの歴史と文化があるが、やはり日本人には日本のそれらがしっくりとするのである。

 上高地は、昭和27年の夏休みに槍ヶ岳から下った時が最初、2度目は当時中学生の長男を連れて行った昭和52年頃、それから30年ぶりの今回であった。梓川を遡行して途中の沢渡の駐車場にマイカーを留める。その先はバスで入る。環境に配慮してのガソリンと電気仕様のハイブリッドだそうだ。

  焼岳の噴火でできた大正池。湖面に突き出していた枯れ木は、すっかり少なくなり池そのものも以前と比べてかなり狭くなっていた。しかし梓川の清流だけは昔と変わりなく、手をいれてその冷たさを味わってみた。

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    山の天気は変りやすいが、午前中の快晴を狙ってホテルを出て林道を河童橋へ向った。真夏の上高地の混雑は銀座並みとまでいわれる。夏休みも終わり、短い黄葉の時期にはやや早い。人影も少なく、これこそが何にも代えがたい贅沢であると感じながら梓川畔を遡った。

  河童橋からは、眼前に聳える明神岳の後方に唐沢、穂高連峰が絵葉書のような風景を見せてくれる。後方には焼岳もくっきりと望むことができた。ヨーロッパアルプスや、カナディアン・ロッキー程のスケールではないが、北アルプス独特の馴染みやすい山容はなぜか日本人には親しめる。そして、人の少ないのが何よりもありがたい贅沢なのであった。

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 帰路は、都心縦断の混雑を避けるために中央自動車道をやめて、八ヶ岳山麓を大きく迂回、再び上信越道佐久ICから関越自動車道を選んだ。あちこちにコスモスが咲き乱れる秋の信州路をゆく旅であった。

 計850kmのドライブであった。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/ 

2007/08/06

落穂ひろい(12)飛行機のこと(航空機事故と人命)

 昭和60(1985)年8月12日、午後18時56分に日本航空ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に激突して22年目を迎える。乗客、乗員あわせて520名が死亡という、単独航空機事故としては世界最大の事故となった。この数字を、神戸・淡路大震災の犠牲者6千数百名や年間交通事故死亡者約7千名(2005年)と比較することはあまり意味の無いことだろう。

 いづれにしても、いかなる事故も避けなければならない。天災はもちろんのこと、人災は叡智をしぼって防ぐべきだが残念ながら毎年多くの人命が事故によって失われているのが現実である。

 本編中にも記したように、ほぼ40年にわたって携わった国際業務の中では航空機利用の頻度が極めて高かった。したがって航空機事故はいつも身近に感じていた。

 よく、一般の交通事故と比較して航空機事故の確率の低さが論じられるが、どんな事故でもいったん起これば、当事者にとってはそれがどのような種類の事故であるかは問題ではない。航空機事故は、意外と頻繁に世界の其処此処で起こっているものであることを認識すべきだ。40年前の個人的な実体験としては、本編関連サイト:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_2dbf_1.htmlを参照ください。

 ご参考までにこのようなサイトもあることをご紹介します。http://www004.upp.so-net.ne.jp/civil_aviation/cadb/wadr/wadr.htm

  ところで、今日8月6日は「原爆の日」、戦争による大量殺戮をわが国のこととして実感することは、戦後生まれの世代にとっては必ずしも容易なことではないかも知れない。わずか数年の間に数百万の、数時間の空襲で数十万の、そしてたった一発の爆弾で10万余の人命が瞬時に失われる戦争は、今日の日本ではゲームの世界でしかない。しかし、ひとたび目を世界に転じればイラクをはじめ中東などではテロ行為による殺戮は際限なく続いている。そして、わが国が絶対に再びこのような戦争に巻き込まれないという保障は全くない。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/ 

2007/03/07

第三部 エピローグ(おわり)-ゆめまぼろしの四十年

・ゆめまぼろしの四十年

 今、こうして四十年余の昔を振返るとき、その時間の永さと重みがしみじみと感じられる。国際芸術見本市協会の設立やアート・フェスティバルの開催にかかわった内外各界の人々、そしてその運営に携わったわれわれ自身も、すでに多くが現役を退き、さらに多くの方々が鬼籍に入ってしまった。主役を演じた美術作家、工芸作家然り。ただ後に残された膨大な作品群だけは、世界中の美術館で、ギャラリーで、コレクターの下で益々輝きを増し、その名声を今に残している。

在任中に接触のあった組織、団体、企業など社会の構成分子のその後の浮き沈みも目まぐるしく、その栄枯盛衰を目の当たりにしてきた。当時には想像することもできなかった現実に生き永らえて、すべてがゆめまぼろしの如くはるか遠くに思い出される今日この頃である。(文中敬称略)

平成十九年一月     千葉県八千代市ゆりのき台にて

*本稿を書いている間にも、昨年12月には十返千鶴子氏、そして今年1月には嘉門安雄氏の訃報に接した。この場を借りてご冥福をお祈りしたい。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/ 

2007/03/06

第三部 エピローグ -継続は力なり

・継続は力なり

 芸術、文化は不変である。当時に輝いた作品は、今もそのままに、いやそれ以上に輝き続けている。国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)が海外で展示した多くの作品は、今日も海外あるいは国内の美術館で、ギャラリーで、コレクターの下でその価値を発揮し続けている。

現在、多くの比較的若い作家達が彼らの経歴の中に、アート・フェスティバル出展の実績を掲げている。限られたジャンルと短い期間であったとはいえ、日本の現代美術、伝統文化をこれほど幅広く網羅、凝集して、大量に、反復して海外の人々に供した試みは、かつて無かったことであった。

「継続は力なり」といわれるとおり、当初の稚拙な知識や体験は、回を重ねるに連れて確かな実績となり、結果として日本の芸術を広く海外に紹介すると共に、新進作家の登竜門の一端をも担うようになった。その意味で第一回ジャパン・アート・フェスティバルは、わが国芸術文化の海外紹介の歴史に大きな足跡を残したと言えよう。

 

ただ残念なことは、アート・フェスティバルの初期段階において、幾つかの作品が不幸にも破損、盗難等の事故にあったことである。このことは四十年後の今日に至ってもなお胸の痛む思いであることに変わりはない。

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2007/03/05

第三部 エピローグ - IT時代の到来に思う

・IT時代の到来に思う 

当時は、情報・通信技術が未だ今日のように発達していたわけでもなく、大企業か商社でもないかぎり、コストのかかる国際電話はそれほど使われることもなかった。実務においては普段は郵便や、せいぜい国際電報かテレックスが利用されていたにすぎない。ファクシミリの出現ももう少し後になる。パソコンによるメール通信や携帯電話による通話が可能になるまでには、さらに三十年を要したのであった。IT時代の到来がビジネスに及ぼしたインパクトは絶大である。

もちろん当時としては最先端のビジネス環境が備わっていたには違いないが、今考えれば極めて素朴な手段や方法に依存していたわけである。もし当時に今日のようなIT技術の恩恵を受けることできたとしたら、常に時差やコミュニケーションに悩まされていた私の仕事もどれほど効率的に遂行できただろうかと、時代の大きな変化を実感するとき感慨も一入である。

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2007/03/04

第三部 エピローグ - メイド・イン・ジャパンの健闘

・メイド・イン・ジャパンの健闘 

 一九六六年は戦後約二十年、わが国の生産性向上も軌道に乗りはじめて、産業経済力もようやく先進国の仲間入りをしようというところに近付きつつあった。

 当時を遡ること約十年、昭和三十年代はまさにわが国が貪欲に海外から多くを学び取った時代である。生産性向上を旗印に、欧米の科学的経営管理に独自の修正を加えて日本的経営管理の開発に成功したのであった。工業製品について言うならば「メイド・イン・ジャパンは安物の代名詞」であることを完全に返上するのはこれから未だ一、二年後のことであった。このことは、米国への出張を足繁く繰り返す中で日々実感することができた。

米国における日本のプレゼンスの拡大は、単に経済分野だけにはとどまらなかった。特に戦後アメリカ知識階級の東洋文化に対する関心がこの頃急速に高まりつつあった。日本の絵画、彫刻、版画も国際的に高い評価を受けつつあり、このことがジャパン・アート・フェスティバル成功の大きな要因の一つともなった。いわば、日本文化や美術をはじめとする東洋文化全般に対する教養が、知識階級にとっての資格条件の一つになりつつあったといっても良い。

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2007/03/03

第三部 エピローグ - 昭和十年生まれ

関連サイト:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_df0a.html

・昭和十年生まれ

 さらに個人的な視点から当時の自分の心理状態を思い起こして見る。昭和十年生まれの自分にとって、一九六六年当時のアメリカは依然としてかつての戦勝国であり、それは、占領軍、進駐軍というイメージによって代表されていた。

太平洋戦争勃発の三ヵ月後に国民学校(現小学校)に入学、四年生の時に疎開先の京都府下丹波の山村で終戦を迎えた。

講和条約が結ばれるまでのその後の数年間は、京都の町を我が物顔に闊歩し、街頭や映画館の中で傍若無人に振舞うGI達の姿、そこではただうつむいて見ない振りをしていた日本人大衆がいた。

市内に置かれた司令部の警備に立つMPの険しい顔、戦後の貧困にあえぐ日本人を尻目に町を走り回るジープや軍用トラックは日本人の敗北感をより強いものにした。色とりどりの包装紙にくるまれたキャンディ、チョコレート、チューイングガム、缶詰、どれもかも彼らの豊かさの象徴であった。

そして終戦後二十年余、ジャパン・アート・フェスティバルの過程で接した人々は、我々がほんの十年ほど前までは強い羨望と畏怖の念をもって眺めていた戦勝国の将兵であった。実際に、横須賀や立川、横田を知っているとか、沖縄に居たという人々は少なくなかった。

きわめて当り前すぎる話ではあるが、今、目の前でつなぎの作業服を着て立ち働いている、どちらかといえば善良そうな職人達が私に指示を仰ぎ、私の指示に従っている。契約相手である企業のビジネスマンや高級幹部たちが、対等ではあるが礼節をもって取引に臨んでいる。奢ることなく誠意をもって接するならば、彼らもまた誠意をもって応えてくれる。  

多くの出会いの中で、友情を結ぶまでに信頼し合うことができたアメリカ人も少なくなかった。当然のことながらアメリカ人も普通の人間だった。こんな古い日本人の心理は、外人コンプレックスなどとは無縁な現代の日本の若者達には理解し難いことかも知れない。そして昭和二十年代生まれの団塊の世代は、果たして?

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2007/03/02

第三部 エピローグ - 試行錯誤

さて、四十年後の今、改めてこの日記を読み返してみて幾つかの感慨がある。

・無意識の中の精神的ストレスか

その一つは、海外出張中はともすれば不眠症や胃腸の不快感に悩まされていたことである。単独出張が多かったこともあって、自分では気付いていなかったものの常に精神的な圧力を一身に受けていたところがあったのかも知れない。

一人旅は公私共に常に孤独であり、浅いビジネス経験の中では意思決定ひとつにしても、無意識のうちに緊張を強いられ、それが心身の負担となっていたのだろうか。

当時は、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどの大都会ではともかく、米国の地方都市では日本人と遭遇することは殆どなく、日本のプレゼンスを感じることも極めて希薄であった。そんなことから、無意識のなかにも孤立感、孤独感によるストレスを深めていたのかも知れない。

・試行錯誤が学習の教師

 浅いビジネス経験といえば、協会発足当初は組織自体に事業の運営管理能力が十分に備わっていたとは思えない。この種の団体によくみられるいわゆるトップヘビーの組織構造であった。多くの内外有力者や公的機関の支援と協力を得ていたとはいえ、事業の第一線で仕事をする事務局スタッフの管理能力(知識と経験)には限界があった。

 具体的には、国内外業者との契約体系の確立、巡回展移動に伴う作品管理、特に盗難、破損等事故発生時の責任所在の明確化、緊急事態発生時の対応などについては、今考えれば必ずしも十分な体制と意識レベルにあったとは言えない。試行錯誤が学習の教師であったと言うべきか。

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