長期の海外出張に伴うホテル生活の中で、大きな問題の一つとなったのが毎日の食事であった。本編にも記しているように、総じて和食好みであった。
一般に幼年期の食事に対する嗜好性は、大人になってからも大きく変ることは無いと言われる。昭和初期(戦前)の生まれであること、少年時代の家庭生活を古都・京都で送ったことなどもその原因の一つになっていたのかも知れない。子供の頃は当然のことながら、今日で言ういわゆる「ご飯とおかず」が中心の食生活であった。洋食といえば、たまに親や家族と外出した際にお目にかかるオムライスやハンバーグ、ポークカツレツの類であったのではないだろうか。これとても「日本的な洋食」に過ぎなかったのだが、それなりに贅沢でもあり珍しくもあった。なにしろ、フォークやナイフを使っての食事は全く稀有な体験でもあったのだから。
牛肉を使っては、当時としてはすきやきなどが最高のご馳走であったが、これとても醤油味をベースとした和式のレシピに従うものである。戦後生まれの人たちや若者たちは、どちらかと言えば、焼肉やステーキを好む。高脂血症に悩まされる現在でも、(日本の)ステーキにだけは目が無いことを白状しておくが・・・
そんなわけで、出張中は長期間現地アメリカの食事にのみ依存することは日常の大きな苦痛だった。京風懐石と言わないまでも、時には、刺身やてんぷら、味噌汁、澄まし汁、おしたし、豆腐などが猛烈に恋しくなる。たまには麺類も食べたい。
圧倒的に巨大なアメリカ式ステーキとマッシュポテトなどは、いかにそれが米国人にとっての贅沢なご馳走であっても、見るだけでげんなりしてしまう。チーズ、トマト、オリーブオイル、香辛料などをふんだんに使った多国籍的料理、サンドイッチ、ホットドッグ、ハンバーガー、コールスローやピクルスが毎日では耐えることができない。
幸い40年前のニューヨークやシカゴにもいくつかの和食レストランや鮨屋があった。サンフランシスコに行けば、普通の「ご飯とおかず」にありつくこともできた。もちろん、ロサンゼルスの日本人街・リトルトーキョーに行けば、全く問題はなかった。問題は、どちらかと言えば地方の中小都市であった。和食の代替は中華料理だ。イエローページは有力な情報源となった。タクシーを使ってでも、週に一度くらいは和食や中華料理を求めて出かけて行ったものだ。やっと見つけたレストランが場末の余りにもみすぼらしい店であったり、提供される料理がとても和食と呼べるようなシロモノでないことも間々あった。
現在、大都市では日本レストランは軒並みにお目にかかる。それどころか多くのアメリカ人が、自国の料理よりもはるかに割高につく和食を好んで楽しんでいる。日本からの海外渡航者数が年間約1700万人という今日とは違って当時は21万人程度であった時代の話である。
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