2010/06/18

軍国主義教育にみる戦中小学校国語教科書(その2)

 昭和19年(1944) 度の文部省検定による国民学校二年生用の教科書である。それまでの「初等科修身」教科書は、太平洋戦争が始まった昭和16年には「ヨイコドモ」と名を変えていた。(拡大するには写真をクリック

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 今日にいう「道徳」の教科である。発行当初のものは、挿絵がカラー印刷であったが、戦況厳しく極端に物資不足のこの頃にはモノクロ印刷であった。内容は説明するまでもない。「一億一心火の玉」になって戦争に突入することが要求された時代であった。数ヵ月後には広島、長崎に原子爆弾が投下され、我が国は敗戦、降伏を迎えた。

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2010/05/05

昭和30年代の自動車運転教習所

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 学生時代の昭和30年(1955)頃、東京都・新宿区にあった自動車教習所に通った。自動車運転免許を取るための教習には、当時のダットサントラックを利用した記憶がある。当時の教習所のパンフレットを見ると、免許の種類は普通自動車、小型自動四輪車、自動三輪車(オート三輪車)、側車付自動二輪車(サイドカー)、軽自動車などがあったようだ。

 普通自動車免許を取得すれば、自動二輪車(現在のナナハンも)の運転をすることができた。今日のようにAT車限定の免許は無く、すべてがマニュアルギア方式であった。S字クランクの前進・後退、車庫入れ、縦列駐車、坂道発進などは現在もやるのだろうか。

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 当時、自動車運転教習所は今日ほど多くは無かった。むしろずっと少なかった。生徒もお客様扱いされないどころか、高圧的でどなり散らす教官が多かったようだ。料金表によれば、普通自動車は一教程500円、その他は300円、最低教程数は、普通自動車で35教程、全教程実習費17,500円といったものであった。

 大学では、体育の課程で自動車を選択することができた。夏季の合宿で単位を取得することができた。学生に人気があり、希望者が多くてあぶれるものが多かった。

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2010/02/28

軍国主義教育にみる戦中小学校国語教科書(その1)

 昭和ひとケタ時代に使用されていた「小学国語読本(尋常科用)」(いわゆるサクラ読本)は、昭和16年の4月を境にして「ヨミカタ」(いわゆるアサヒ読本)に変わった。Img035_7 Img036_5                                                                                      前者は一年生用が「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まり、後者は、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で始まっているので、「サクラ読本」、「アサヒ読本」と呼ばれている。 

 

 昭和12年に始まった日中戦争に引き続き、国家総動員法公布、日独伊三国同盟調印、大政翼賛会発足と、世はまさに日米戦争突入寸前であった。国民生活にも国家による強い統制が加わる中、小学校(昭和16年には国民学校となる)の教育にも軍国主義が色濃くなってきた。そんな時代の趨勢が小学校の国語教科書の内容にも読み取れる。                                                                                                             Img219_2 Img220_2 こどもの遊びも「兵隊ごっこ」と変わり、「キ ヲ ツケ」、「ミギへ ナラヘ」、「ナオレ」、「バンガウ」などと。 まさに軍隊用語が国民学校だけではなく、遊びの中にも入ってきた。校庭では毎朝「宮城遥拝」が行われ、子供達は兵隊さんの「武運長久」を祈ることが当たり前の時代に入って行った。Img222

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2009/11/29

再び「昭和10年生まれ」 - 嵯峨野高校同窓会

 京都府立嵯峨野高等学校出身者で関東在住のものが、毎年東京、横浜などの首都圏で同窓会をやっている。参加者の中心は昭和29年度卒業生ということになっているのだがあまり難しいことはいわない。直近では、この11月13日に銀座近くで開催した。

 都合がつけばわざわざ京都から駆けつける者もある。卒業年度が多少前後する者の参加もある。要するに、同窓会というよりは、「サガノ会」とでも称すべき集まりである。昭和29年度の高校卒業生は、早生まれの者もいるが大体は昭和10年生まれである。

 過日の同窓会では、自分たち昭和10年生まれがいろいろな歴史的節目を体験してきたことが話題になった。それは昭和16年12月8日の日米開戦に始まったといえる。国民学校(小学校)に入学したのが開戦直後の昭和17年4月であった。

 幼少時代の思い出とともに、嵯峨野、嵯峨、嵐山、太秦、花園、御室、双が岡、龍安寺などといった洛西での生活体験を共有する仲間である。 3~4年生頃には学童疎開(集団疎開・縁故疎開)を体験した。昭和20年8月15日に終戦(国民学校4年生)を迎えた。この間、軍国主義教育を受けた。昭和23年3月に小学校を卒業。食糧事情が最も劣悪な戦後の時期を迎えていた。

 戦後の学制改革(6・3・3制)によって新たに発足した新制中学校に、三年間フルに在籍した最初の中学生となった(昭和23年~26年、この間は連合軍の占領下にあった)。

 昭和16年に嵯峨野高等女学校として開校したが、旧制女学校としての歴史はわずかに数年間。 終戦直後には新制・京都市立嵯峨野中学校として2年間転用された。25年には新制・嵯峨野高等学校として再発足した。したがって昭和10年生まれの我々は、嵯峨野高校の第1回入学生であり第3回卒業生となった。

 昭和26年4月~29年3月新制高校に在籍(26年サンフランシスコ講和条約締結により日本は独立を回復)。昭和30年には自由民主党が結成されていわゆる55年体制が発足した。大学卒業時の初任給は9千円から1万1千円程度であったと記憶する。 就職難時代ではあったが、60年代の高度成長期には第一線に参加する世代となった。

 そんな嵯峨野高校も半世紀余の歴史を重ねてきた。

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2009/08/15

終戦の日

 64回目の終戦記念日を迎えた。ある大学での調査結果によれば、「終戦の日」がいつであるかを正しく答えられた学生は33.2%であったそうだ。 戦後生まれの人口が4分の3を越え、最後となった徴兵検査を19歳で受けた人が83歳になるらしい。 以上は今朝の朝日新聞社説の記述である。

 現在18歳の学生にとっての64年前の太平洋戦争終結(1945年)は、昭和十年生まれの我々にとっては、時間的な流れについてのみいえば1889年(明治22年)に該当する。調べてみると内閣総理大臣が三条実美から山県有朋に交替した時代である。18歳にとっての「日本敗戦」はそれほど大昔のことなのだと納得する。

 ここ数日間は、例年の如く各テレビ局では戦争関連番組が連日放送されている。 節操もないくらいにこれらの番組に没頭してしまった。戦後64年の歳月が経過したにもかかわらず、毎年のことながら、またまた新しい資料や証言が国内のみならず海外からも出てくる。

 なかでも興味を引かれたのは、NHKの放送番組「日本海軍400時間の証言」であった。これは、当時の海軍軍令部のスタッフを中心とした将官、将校らによる100回以上に及ぶ「反省会」での発言記録であった。「反省会」が開催された時期が、戦後半世紀を経た昭和末期から平成初頭であったこともよかった。 残された膨大な録音テープによる発言者の内容が、その虚実が視聴者の判断に委ねられるような客観的な視点と形式で放送されたのもよかった。

 想像を絶する過酷な戦争体験が直接語られる「証言」には迫力と説得力がある。当時の指導者や軍幹部、下士官・兵、もしくはその周辺で歴史を体験、目撃した人々の戦後証言や語録はその内容の如何にかかわらず興味を引く。

 戦後60数年を経て、なお保身のための自己弁護、真摯な反省、苦衷の懺悔・・・・・と人間の性が如実に見て取れるのは、古今東西を問わない。

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2009/05/20

早稲田大学今昔 - 早稲田祭

  早稲田大学は一昨年(2007)、創立125周年記念事業をおこなった。081021_3

  在校生、一般OBに加えて、玉石混淆・世間の評価はまちまちながら各界に多彩なOBを多数輩出しているところから、著名人も参加しての盛大な記念行事であった。また若者世代の世相を反映してか、娯楽的趣向も豊富に盛り込まれていた。

 手Img043_4元に「創立75周年・早稲田祭」なるパンフレットがある。1957年10月21日から27日に実施された早稲田大学創立75周年記念事業のパンフレットである。主催は早稲田大学・早稲田祭委員会となっている。

  52年前、昭和32年、大学4年在籍時のイベントであった。頁を繰ってみる。当然のことながらプログラムは、当時の世相、社会状況を如実に示していて興味がつきない。

 大隈講堂やその他の会場でおこなわれた講演会、展示会、映画会などの演題・講師、プログラムなどをいくつか拾ってみよう。

 「早稲田の歩み」=浅沼稲次郎、「学問と政治」=鈴木茂三郎、「大学の伝統と学問研究の自由について」・大内兵衛・中谷博、、「戦後の教育について」=国分一太郎、「道徳教育をめぐって」=松永東、羽仁説子ほか

 「原子力に志す若者達に語る」=中曽根康弘、「歴史と現代」=上原専禄・三笠宮祟仁、「学生運動について」=大槻健、「学生生活について」=山下肇

 「中小企業組織法」=春日一幸、「中小企業経営と大企業経営」=鮎川義介

 「日本における社会運動」=賀川豊彦、「労働政策の見方」=松岡三郎、「戦後の労働運動」=大河内一男・斎藤一郎、「日本経済の構造と将来」=野田信夫・小島清

 「力と外交」=服部卓四郎、「売春防止法について」=菅原通済

 「大衆芸術論」-転形期に於ける現代芸術の課題としてー=佐々木基一、岡本太郎・花田清輝・野間宏、「絵画の記録性」=針生一郎、「美術一般について」=中原佑介・利根山光人

 「現代日本文学の課題ー 楢山節考の評価について」=花田清輝、「芸術における前衛派」=岡本太郎・黛敏郎・安部公房、座談会「先輩と語ろう」=鶴見俊介ほか

 「思い出の山旅」=串田孫一、「私小説論」=平野兼、「ソヴェトロシアをめぐりて」=湯浅芳子

 映画=忘れられた人々、最後の橋、女の園、ビルマの竪琴、十代の反抗、シベリア物語、マナスルに立つ、など

 劇団民芸=「島」(細川ちか子、下条正巳、北林谷栄、下元勉、高田敏江ほか)

 映画と講演=真山美保、宇野重吉、金達寿・「沙道城物語」

 昭和18年に 「最後の早慶戦」が行われた戸塚球場は、まだ新宿区戸塚のメインキャンパス(現在の早稲田キャンパス)に安部球場として往時の姿を残していた

 75週年を記念して早大記念会堂が竣工、7年後の東京オリンピックではフェンシング競技会場として使用された。

 現在の戸山キャンパスにあった高等学院は、昭和31年(1956)すでに練馬区上石神井に移転していた。

 戸山キャンパスや大久保キャンパス(西早稲田キャンパス)ができたのは後年のことであり、当時は文学部、理工学部を含めたほぼ全学生が「都の西北」に同居していたわけである。

 女子学生は文学部や教育学部には多少在籍したものの、わが法学部にはきわめて少なかった。今日、キャンパスでは詰襟の学生服は全く見当たらず、これを着用しているのは応援団など体育系学生のみらしい。

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2009/04/22

JTB時刻表1000号発行 - 宮脇俊三著・時刻表昭和史

  「JTB時刻表1000号」が発行された。

 たまたま「時刻表昭和史」(宮脇俊三著・角川選書・昭和55年)の再々読を終えたばかりであった。

 宮脇俊三氏は若い時から本業の雑誌編集に従事しながらも、鉄道や列車時刻表などに大きな関心を持ち続けた鉄道ファンであった。のみならず、幼少時からの鉄道体験を歴史、文学のレベルにまで高めて著した文化人でもあった。元祖鉄ちゃんの一人とも言うべきか。

 「時刻表昭和史」には、昭和初期から昭和20年8月の終戦に至るまでの著者の個人的な鉄道体験が詳述されている。鉄道や時刻表に委ねられた時代背景には読者の興味は尽きない。 東海道・山陽本線のみならず地方本線の変遷が具体的に記されている。幼いころの著者の鉄道に対する興奮、感動ぶりがこちらの心にも伝わってくる。

 記述は昭和20年8月15日の終戦日の場面で終わる。当時新潟に疎開していた18歳の著者は、たまたま所用で東京からやってきた父上に同行して山形・大石田への小旅行をした。用事が済んで疎開先への帰途、米沢から坂町を結ぶローカル線・米坂線に乗り換えるために途中の今泉駅で列車の到着を待つ。正午に何やら重大放送があるということが耳に入る。

 真夏の太陽が照りつける蝉しぐれの中、今泉駅前広場に居合わせた人々がラヂオの玉音放送に耳を傾ける。

 何よりも著者が感動するのは、その数十分後に坂町行き列車が、動輪の間から蒸気を吐きながら時間どおりにホームに進入して来るシーンである。そこでは機関士や助手、駅の助役らが登場して、タブレットの受け渡しなどの日常作業が、まるで何事もなかったように遂行される。

 敗戦という大激震の直後にも拘わらずこの地域では汽車が時間どおりに運行されていたことに、著者は忘れることのできない印象を受けたのだった。著者のこの感動は読者にも十分伝わってくるのである。

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2009/04/15

食の季節感 - 鯖寿司

  ふるさと京都の氏神である松尾大社の春のお祭り(神幸祭)は昔から四月の後半(現在は第4日曜日)。木々の新芽が出始める頃。当時も今も咲き誇る山吹が見られる。 子供の頃、この日には鯖寿司を食べたものだ。もちろん自家製である。

 すし飯を抜くための抜き型(木枠)、作業台、包装材となる竹の皮、出来上がった鯖寿司を容れるための大型の木箱など必要な用具が所狭しとばかりに台所に準備される。

 季節の生鯖は若狭から運ばれてきたものを母が予め10尾あまりも仕入れておく。三枚に下ろして小骨を抜き、酢締めなどの下拵えを手際よくやって置く。合わせ酢で寿司飯を準備する。大家族で暮らしていた当時は、炊く米の量が3~4升にもなった。これを前日の夜に洗って、大笊に入れて水を切っておく。

 当日は、家中に酢飯の香りが充満する。年長の姉たちは多少の手伝いはするが、我々悪童共は何の役にも立たないどころか、あわよくば出来立ての寿司のおこぼれに与かろうとうろうろするのみで、かえって母の仕事の邪魔になるのであった。

 出来上がった鯖寿司は、一本々丁寧に竹の皮に包まれ、これも竹の皮でできた細紐で結ばれる。大型の木箱に20本余りが納められて、一晩重石をかけて台所の片隅に置かれる。程よく風味が増した鯖寿司は翌日には食べごろとなる。

 主婦にとっては、実に大変な労力と手間のかかる仕事であったが、昭和初期の女性達にとっては、この程度の作業は一年を通じて頻繁に巡ってくる折々の行事に伴う役割であった。 盆、暮れ・正月の準備、月々の仏事、着物の洗い張り、布団づくり、梅干作り、季節の漬物、等々・・・と際限がない。

 朝いつ起きたのか、昨夜は何時に床についたのか、そんなことは考えたこともなかった。いつも起きていた母。明治、大正、昭和、平成を生きた母だった。

  隣家から筍をいただいた。さっそく米糠汁で茹でて季節をいただく。わかめと炊いた若竹煮、筍ご飯、酢味噌和えなどで季節感を味わった。木の芽が風味を引き立たせる。

 春から夏にかけては、そら豆、絹さや、そして間もなく豌豆と季節の食の楽しみが続く。食べることは子供の頃からの大きな楽しみの一つであった。当然ながらすべては一家の主婦である母まかせであったのだが、子供心にも一年を通じて、折々のレシピ(というようなしゃれたものではないが、言うなればご飯のおかず)が季節の移り変わりとともに日々の楽しみとなっていた。

 筍、蕗、胡瓜、茄子、トマト、鰹、鱧、素麺、西瓜、芋茎、そして数々の京野菜等々と食の季節は巡っていく。芹、大葉、三つ葉、木の芽などが添えられる。また、盛り付けには葉蘭、南天の葉、経木などが活躍する。食べ物やそれらにまつわる演出から得られる季節感は感動的だった。旬のものは言うまでもないが、はしりものを味わうのも子供心にも楽しみだった。 

 何事につけても、人には皆それぞれの幼少の頃に培った季節感があるはずだ。ハウス栽培など農業技術のおかげで、今日では幸か不幸か一年を通じて大抵の食材が容易に手に入る。そして食の季節感も失われていく。 これを喜ぶべきか、悲しむべきか。

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2009/02/02

東海道・山陽新幹線 - 鉄道の今昔

 JR列車時刻表によれば、東海道・山陽新幹線「のぞみ号」(N700)を利用すると、6時00分に東京駅を出発して10時50分には博多駅に着くそうだ。4時間50分の旅である。科学技術進歩の恩恵をつくづく実感する現代である。 

 最近の懐古趣味に駆られて「亜細亜の曙」(アジアのあけぼの・山中峯太郎著)という題名の昔の児童文学を再読した。戦中であったか戦後であったか、今となっては定かではないが、当時の国民学校(小学校)時代に読んだ少年冒険小説である。あれから60年余。

 この小説の冒頭は、当時(昭和5年前後か)の1・2等特別急行列車「ふじ」(富士)の描写から始まる。時は春、桜の季節。列車は午前10時に東京駅を出発する。名古屋~岐阜~大垣を経た頃には早くも日が暮れ始める。

 京都に着くころには、車両の通路にはカーテンが下ろされて寝台車に変身する。一夜明けて下関到着が午前8時45分となっている。22時間15分の旅である。今日の寝台特急・富士・はやぶさは東京発18時03分、下関着は翌日の8時32分となっている。所要時間は約14時間30分。鉄道ファンに親しまれたこのブルートレインも3月13日のラストランによりその名を消してしまうことになる。

 東京の大学に入って、故郷の京都へ帰省するときには、大抵夜行列車を利用したものだ。と言っても寝台車ではない。昭和30年前後の学生や一般庶民の汽車旅行は並大抵ではなかった。立錐の余地もない通路に新聞紙をしいて石炭の粉じんと絶え間ない轟音に苦しみながら東海道を下る。やっと夜が明けて京都について、駅の水道で口をすすぎ煤けた顔を洗う。

 休暇が終って東京に戻る折は懐具合も比較的よい。そんな時には特急「つばめ号」利用の贅沢をすることもあった。

 蒸気機関車(SL)は、今日でこそ昔日の旅情のシンボルである。石炭の燃える匂いでさえ懐かしい。その雄姿は熱烈な鉄道ファンの垂涎の的である。昭和初期の鉄道については、宮脇俊三著「時刻表昭和史」(角川選書)に詳しく記されている。

 因みに、昭和初期の少年冒険小説作家・山中峯太郎の著には、他にも「敵中横断三百里」、「大東の鐵人」、「見えない飛行機」などがある。現代の歴史観からみて、その内容の当否は兎も角として、また小学生にとってはいささか舞台のスケールが大きすぎて十分な理解が困難であったにも拘わらず、当時の少年たちの想像力と興奮を大いに誘ったものであった。

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2009/01/11

戦前、戦中の小学国語教科書ーサクラ読本・アサヒ読本

 前回の記述に引き続いて、さらに昔の小学校の国語教科書に触れてみたい。

 昭和初期から終戦時(1945年)までに小学校で学んだ人々の間では、「君はアサヒ世代か、僕はサクラ世代だ」というような会話が交わされることがある。現在ほぼ70歳以上の世代である。

 小学校入学時に初めて支給された文部省検定の国語教科書によって、互いに世代を確認し合うというぐあいである。

 昭和15年までに入学した児童には、「尋常科小學國語讀本・巻一」(サクラ読本)が、16年以降の新入生には「ヨミカタ・一」(アサヒ読本)が支給された。

 前者は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で、後者は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」とどちらも片仮名の文章で始まる。前者はつくりも立派で、挿絵などの印刷も美麗かつ繊細なものであった。Img035_2 

 

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  昭和17年入学の私たちが使用したアサヒ読本は、戦時中の物資不足を反映して、紙質や印刷も随分質素になり、前者と比べてかなり見劣りがする。兄や姉たちの美しい教科書が羨ましかったことを覚えている。

 ともに、一年間を二分冊に分けており、前者は「尋常科小學國語讀本・巻一、二」、後者は「ヨミカタ・一、二」となっていた。内容も徐々に戦争を意識したものに変化していった。

 ひらがなの学習が始まるのは二年生から。新漢字の登場は、サクラ読本二分冊で316文字、アサヒ読本では415文字であった。

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