終戦70周年 - 戦争と平和=ある下級兵士の一生(1/2)
今年、世界は第二次大戦終結70周年を迎える。新聞、テレビ、出版など種々のメディアで戦争の話題が取り上げられている。終戦記念日が近づくにつれ、国内のみならず海外でも多様なイベントが開催され、言論が活発に交わされることが予想される。この時期人々は否応なしに戦争と向き合わねばならない。
とりわけ、昭和16年12月8日に始まり20年8月15日に敗戦を迎えた太平洋戦争の3年余の間に、日本国民は精神的にも経済的にも未曾有の苦しみを味わうことになった。この間に国の内外に於いては多くの軍人、民間人の命が虫けらのように失われた。
終戦(敗戦)から70年が経過した現在、戦前は言うまでもなく、戦中を体験した日本人は益々少なくなってきた。ましてや、現代の若者達にとっては、かつてわが国が米英を含む連合国を相手に壮烈な戦争をしたことなどは想像し難いことであろう。
昭和10年(1935年)生まれの私は、日米開戦(日本によるハワイ真珠湾攻撃)の4か月後、昭和17年4月に国民学校(当時の小学校)に入学した。 昭和20年8月15日の終戦日は、疎開先の京都府丹波の山村で迎えた。
第二次世界大戦によるわが国の軍人、軍属、民間人の犠牲は300万人を超えるといわれる。戦地では戦闘や飢餓・傷病により、国内では主として空爆による戦災により多数の将兵や民間人が犠牲になった。沖縄のように地上戦で多くの軍民犠牲者を出したところもある。
戦況の実態については最後まで何も知らされずに、ただ「神国大日本帝国」の勝利を信じて戦場に斃れていった第一線の指揮官や下級将校、殊に末端の無名兵士は数知れない。軍隊を構成する大半の下級兵士たちは、その色から「赤紙」と呼ばれたたった一枚の召集令状によって、否応なしに巨大な軍隊組織のひとコマに組み込まれていった。
幼い頃に一つ屋根の下に過ごした私の叔父に召集令状が来たのは昭和18年12月。大正2年生まれの叔父はすでに30歳を超えていた。おおむね20歳代前半の若者によって構成されていた軍隊では老兵ともいわれる年齢であった。同年の1月に結婚して新婚生活9か月目であった。
中耳に軽い障害のあった叔父は、昭和8年の徴兵検査で「第二乙種」の判定を受けて、「第二補充兵役」に登録されていた。戦争が激化するにつれ、次々と戦死していく将兵を補うために、当初は徴兵を猶予されていた年少者、学徒、技術者らも軍隊に組み込まれていった。すでに多くの現役将兵が戦死して戦力を失いつつあった日本は、あらゆる資源が枯渇し始め戦況は著しく切迫していた。
補充兵役といえども召集は絶対的であり、その結果兵士たちは家族と別れ、職場を離れ、軍命令のもとに戦場へと駆り出されていった。
戦争指導者であった政府高官・軍の最高幹部、将官・高級将校ら一部エリートの責任や戦後の顛末はさておくとして、軍隊の最末端で悲惨な最後を迎えた多くの無名の兵士達に対する戦後および現在の日本人の認識、対応はどうであったか。これらの事実が政府、行政、一般市民からもとかく忘れられがちであることにつき、多少なりとも戦中・戦後を実体験した私はいつも忸怩たる感を持ち続けてきた。
結婚9か月目の昭和18年12月27日に応召した叔父のその後の顛末はあまりにも理不尽というべきものであった。役所の保管する兵籍簿(軍歴記録)によれば、
昭和18年12月27日 野砲兵第五十三聯隊補充隊に応召
即日 第二軍野戦貨物廠第二開拓勤務隊に編 入
昭和19年 1月12日 宇品港出向(豪北派遣)
昭和19年 2月15日 西部ニューギニア・ビアク島ポスネック上陸
昭和19年 5月27日~
7月10日 ビアク島付近の戦闘に参加
昭和19年12月 9日 戦死
昭和22年 7月20日 死亡公報
昭和22年10月 6日 英霊交付
脆弱な軍備しか持たない日本軍は、米軍の圧倒的な勢力の下にあえなく敗れて、叔父の所属した中隊は全滅(全員戦死)したと報告されている。
あの時代、若くして戦場に斃れた無名の戦士は数知れない。彼らの人生は戦争による苦痛と恐怖の中のせいぜい二十数年の半生にも満たないものであった。
戦後70周年を迎えて、戦争の実態を正しく知りその悲惨さを再確認することが、戦争犠牲者に対するささやかな供養になるのではないか。
*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイトをご参照ください。
http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html
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