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2011/12/14

第一部 国際芸術見本市(ジャパンアートフェスティバル)の回想=(事業の概要)②

ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)

・第一回ジャパン・アート・フェスティバルをNYで開催

 将来の展望はともかく、発足当初の協会の当面の目標は、まず米国はニューヨーク、マンハッタンのど真ん中で、かつてない大規模な日本芸術祭(ジャパン・アート・フェスティバル)を開催することであった。将来は新進作家の発掘をも視野に入れながら、当面は既成の一流芸術家による絵画、版画、彫刻、書などの美術品、人間国宝クラスによる陶磁器、漆器、金工、木竹工、染織、織物などの伝統工芸品を展示(かつ販売)するとともに、さらには家元クラスによる茶道、華道のデモンストレーションを現地で行うというものであった。 

 そこには、若手の新進芸術家の発掘を目指すところもあったが、主たる目的は、限られたジャンルではあるが、わが国の芸術文化を最高度の環境条件の中で展示、紹介し、将来はそれらの美術作品、工芸品の市場を開拓して、その輸出振興を図ろうというものであった。

 第一回ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)巡回展のトップを切る「ニューヨーク展示会」は昭和41年(1966)3月22日から4月23日まで約一ヵ月間開催された。時はJ・Fケネディ大統領が暗殺されて未だ二年余り。後継のリンドン・ジョンソン大統領のもと、ベトナム戦争に対するアメリカの軍事介入は、首都ハノイを含むいわゆる北爆を契機にますます深みにはまりつつあった頃であった。

 われわれ協会事務局スタッフがニューヨークに到着したのが2月21日であるから、フェスティバル開会のほぼ一か月前に現地入りしたことになる。展示作品とインスタレーション機材を含む膨大な貨物の陸揚げと移送、大がかりな会場構成の工事、事前の広報活動、関係諸機関や後に述べる関係業者との折衝などで、一カ月のリードタイムは結果的には決して長すぎないどころかむしろ厳しいものであった。

・大型使節団が訪米

 3月22日ニューヨーク展開会に先立って、3月14日には日本から大型文化使節団が渡米した。団長は国際芸術見本市協会副会長藤井丙午。団メンバーとして、協会顧問の中曽根康弘、理事長麻生良方、石田博英、木村武千代、佐藤観次郎、加藤清二など芸術議員連盟に属する超党派両院議員、会場設計を担当した丹下健三、選考委員の美術評論家、芸術愛好の一般市民など40数名が参加した。使節団は会場近くのウォルドルフ・アストリアホテルに滞在した。

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 アート・フェスティバルの会場に充てられたのは、ニューヨークはマンハッタンのビジネス街パークアベニューに面して建つユニオン・カーバイドビルディング(現チェイス・ビル、JPモーガン・チェイス本社)の1階から2階に吹き抜けるメインロビーのスペースであった。

・広報とプレビューレセプション

 開会前日の3月21日の夜にはプレビューを兼ねての大規模なレセプションが開催された。米国の美術家、文化人をはじめ、政財界、学界、芸術界全般、メディアなどから、多くの著名人が招待されて華々しい幕開けとなった。ジャパン・ソサイエティ(Japan Society)の会長で、この展示会にも協力を惜しまなかったジョン・D・ロックフェラー三世も主賓の一人であった。松井明国連大使、当時ニューヨークや米国内の方々に在住した池田満寿夫、靉嘔、堂本尚郎、富岡惣一郎などの出品作家はもちろん、日本からも版画の棟方志功や各分野の伝統工芸作家らが参加、出席者は約1300人の盛況であった。

 美術、工芸品の展示と華道、茶道の実演(裏千家・千宗室ほか)のための会場インスタレーションは丹下健三によって設計された。会場内の壁面を飾る巨大写真パネルのデザインは粟津潔、展示作品を紹介するカタログの装丁は原弘など、いずれも当代一流といわれる人々が担当した。

 展示作品の制作出品依頼は国内のみならず海外在住の有名作家にも及んだ。展示された美術作品には、サイズ・重量が数百号・数十キロを超える絵画や彫刻などの大型作品も含まれていた。これらの美術作品や多彩な伝統工芸品の作家たちは全国各地、海外に散在していた。

 国内・海外からの展示作品や膨大なインスタレーション(会場構成)資材の集荷、輸送、梱包、通関、船積み等の一切は大和運輸美術梱包部門が担当した。丹下設計による膨大な会場構成資材の制作には乃村工芸が当たった。秋田木材をふんだんに用いて。水に流れる「筏」をテーマとしたものであった。横浜からの船積み貨物の総量は70トン近くに達した。

 

・ベアテ・ゴードンさん 

 現地ニューヨークでは、フェスティバルの協力者として日米両関係機関の仲介役として活躍してくれたジャパン・ソサイエティのベアテ・シロタ・ゴードンさん(Mrs. Beate Sirota Gordon)のことを忘れることはできない。

 ゴードン夫人は、日本の占領時下マッカサー司令部によって日本国憲法が起草された時に、米国側から参画した唯一の女性スタッフメンバーであったとして、近年になって日本でもその名前がよく知られるようになった。当時彼女は20歳を過ぎたばかりであったが、特に第24条の人権条項「家庭生活における個人の尊さと男女の平等」の制定に深く関わったことで有名である。

 両親共に白系ロシア人で、父はレオ・シロタという音楽家であった。ウイーン生まれで幼少の頃は家族とともに日本で暮らし教育を受けた。英語、日本語はもちろん、数か国語に通じたマルチリンガルである。その頃、在米の日本公館、米政府内の対日部門、日米友好機関の関係者の間で彼女の存在を知らないものはないほどであった。後述するように、まさに芸術見本市協会にとってはうってつけの助っ人であったわけだ。

 アートフェスティバルが開催された時、彼女は40歳を過ぎたばかりの働き盛りであった。80歳を過ぎた現在も、マンハッタン・リバーサイドにある古い風格のある当時のアパートメントに住んでいる。

 なお、上に述べたように、この事業の性質上、在ニューヨーク総領事館(東郷文彦総領事)と日本貿易振興会(ジェトロ)のジャパン・トレード・センターも、このプロジェクトに企画段階から関わりをもつことになり、全面的な支援をしてくれることになった。

  追記: 東郷文彦は後に外務事務次官、駐米大使を務めた。

 

四、アート・フェスティバルの現地運営 = 情報不足に泣く

 協会の構成メンバーとして超党派の有力政治家、財界人、著名美術評論家等を巻き込んでいたとはいえ、組織維持のための財源確保と事業の実施運営は、事務局にとって容易ではなかった。また、膨大かつ多彩な作品群や展示用資材の輸送、輸出入、通関などは専門業者に委ねはしたものの、このような形態の展示会が未だ一般的ではなかった当時には、困難な問題が連鎖的に持ち上がって来るのであった。 

 特に現地で業者を雇用する際の役務提供契約屋労働組合制度などは、彼我の法律や慣行の違いもあって、実務に当たる事務局スタッフを大いに泣かせたものであった。 われわれ事務局スタッフにとってとりわけ未経験かつ未知であったのは、現地の労働組合の仕組みや慣行についてであった。

 米国での展示事業に付随する最も基本的な業務として、本船が現地ニューヨークに着いた時点での貨物(展示作品や会場構成資材)の陸揚げ、輸入通関、陸上輸送、会場への搬入などの一連の現地作業がある。われわれは、この一連の業務を国内外で美術梱包に実績を持つ大和運輸に委託した。

 当時、大和運輸は米国のアライド・ヴァン・ラインズ(Allied Van Lines)のメンバーであるアジアティック・フォーワーダズ(Asiatic Forwarders・本社サンフランシスコ)に米国内の業務を全面的に委託していた。その結果としてこれら一連の運送業務がアライド・ヴァン・ラインズのメンバー企業に一括委ねられたのであった。

・現地労働組合の反発

 職種別労働組合、産業別労働組合が主流をなす米国ユニオンの事情は、日本でもある程度は知られていたが、それが実務の場においてどのような現象として現れるのかについては必ずしも十分な経験を積んではいなかった。このような事情は海外ビジネスに経験のないわれわれの知るところではなく、国内はもちろん在米の関係機関からも特段の警告やアドバイスを受けていなかった。

 

 アライド・ヴァン・ラインズの独占的業務請負に対して、港湾労働者、他の運送関連業者のユニオンから猛反発がおこった。港での荷揚げ作業、展示会場であるユニオン・カーバイドビルへの陸上輸送などに反対してビルの各出入り口には大きなピケラインが張られ、作業は一時完全に停滞した。当方が契約した会場設営業者はすでに多数の職人や労働者を配置してスタンバイしていたが、ピケラインに阻まれて作業を始めることができない。作業の停滞による無駄な人件費などのコストが情け容赦なく発生する。しかし契約業者は、それは自分たちの責任ではないと主張する。

・展示品の販売と関税

 われわれにとって未知、未経験のもう一つの大問題は、輸入に伴う関税であった。絵画、版画、彫刻などのいわゆる美術作品はともかく、当初は人間国宝クラスの伝統工芸作家の作品といえども、米国への輸入に際しては一般の商品(general merchandize)と看做されて、雑貨並みの関税を掛けられ兼ねないような状況であった。

 税関吏個人によっても解釈が異なるとか、先方が日本の伝統工芸や文化について必ずしも十分な知識を持っていないことが原因で、予想もしない問題が惹起するのだった。これらの問題を解決するために、まず、わが国における伝統工芸作品について詳しく説明をするとともに、作家ひとり一人の経歴や、国内外での展示歴、入賞歴などの実績を提示して、税関と折衝し彼らを説得することが事務局スタッフとしての重大な責任となった。

 さらに、アート・フェスティバルの趣旨として現地で展示作品をを販売しようとすることが別の大きな問題をもたらした。通常の関税を免除して無税で輸入を許可される、いわゆる一時輸入(temporary import)の対象となる物品は、必ず再輸出(re-export)されることが条件となっていたからである。通常の海外美術展や見本市がこれである。

 この場合、展示物、資材を含むすべての貨物は保税扱いとして輸入を認められるかわりに、少なからぬ保証金を預託することが義務付けられている。したがって展示会場も一時保管倉庫もすべて保税地域に指定され、その作品を販売したり、使用済みの会場構成資材などを勝手に処分することは許されない。その結果作品を販売することはますます難しくなってしまう。一般の博覧会や見本市への出品と同様の取り扱いが適用されるのであった。

 しかし、こちらは作品を売りたい、売らなければならない。出品者である作家もそれを期待している。また、現地の美術館、大学、ギャラリー、画商、一般の美術愛好家などからも購買の希望が出てくる、となると話が難しくなる。

 売りませんという当初の約束を破って作品を販売した場合には、ペナルティ(罰金)が科されることが決まっている。しからば最初から買主にペナルティを負担させて、すなわち売価にその分を上乗せして作品を渡すことが有効な問題解決策の一つである、という姑息な結論に到達したのは、税関との折衝にかなりくたびれて果てた末であった。とはいうものの、販売は致しませんという輸入時の誓約に対する信義の問題を如何に考えるかということがわれわれの大きな悩みでもあった。

 それでも結論から言うと、わが国の芸術文化を広く紹介し、併せて多くの素晴らしい作品をを全米各地の有名美術館やコレクターに残すことによって、作家を含めて多くの関係者に喜んでもらい、それなりの評価を得ることができたのだった。窮すれば通ず、案ずるより産むが易い、を実体験したのだった。幸いなことに、やがて米国各地の税関当局でも他地域での実績を尊重して(?)、先例に即してルールの拡大解釈をするという態度の変化が見られたのであった。

  * (・・・・・第一部 国際芸術見本市(ジャパンアートフェスティバル)の回想=(事業の概要)③へ続く)

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