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2011/12/15

第一部 国際芸術見本市(ジャパンアートフェスティバル)の回想=(事業の概要)③

五.その後のジャパン・アート・フェスティバル

 当初はとりあえずニューヨーク展のみの開催に全力を傾注したアート・フェスティバルであったが、結果的には引き続いて米国内の他都市でも開催されることになった。それは日本側の希望でもあったが、この企画を聞きつけた米国内の多くの美術館、大学、ギャラリー、百貨店などからの開催野申し出があったからである。

・巡回展になったアート・フェスティバル

 1966年(昭和41年)3月にニューヨークでその第一歩を踏み出した第一回ジャパン・アート・フェスティバル(3月22日~4月23日)は、結局、その規模や内容を少しずつ変えながらも、同年8月にピッツバーグ、11月にシカゴ、翌67年1月にサンフランシスコへ巡回した。

Artinstituteofchicago                                                シカゴ美術館


 さらに第二回として。67年8月にホノルル、10月にはテキサス州・ヒューストン、翌68年1月にルイジアナ州・ニューオーリンズへ巡回、そして同年には第三回としてメキシコはメキシコ・シティ、グアダラハラ、再び米国に戻り11月にイリノイ州・モーリン、12月にミズリー州・セントルイス、69年には第四回としてロサンゼルス、アリゾナ州・フェニックスなどの全米主要都市をほぼ四年間で巡回することになった。

・新進気鋭作家の参画も

 いわば芸術界の重鎮ともいうべき人々によって企画された当初のアート・フェスティバルも、回を重ねるにつれて比較的若い新進気鋭の参画がすすみ、作品にも若手作家の作品が含まれるようになって行った。ちなみに、1968年の第三回フェスティバルの選考委員会には、原弘、針生一郎、乾由明、今泉篤男、嘉門安雄、河北倫明、小山富士夫、久保貞次郎、前田泰次、三木多門、中原佑介、岡田譲、東野芳明、富永惣一、山田智三郎が名を連ねていた。

 なお、現地実演を通じての茶道、華道界の協力として裏千家、池坊、古流松藤会、嵯峨流、小原流、草月流などがそれぞれ家元始め幹部クラスを派遣し、その都度好評を博した。

・現地での共催関係

 国際芸術見本市協会在職四年の間に、私が関わった米国内のジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)の開催主体もしくは共催相手は、形態別にみると下記のとおりであった。

①国際芸術見本市協会の単独主催 = ニューヨーク展(ユニオン・カーバイドビ ル・Union Carbide Bldg.)、ホノルル展(イリカイホテル・The Ilikai)、ヒューストン展(ヒューストン・ナチュラルガスビル・Houston Natural Gas Bldg.)

②美術館との共催 = シカゴ展(シカゴ美術館・The Art Institute of Chicago)、サンフランシスコ展(デ・ヤング美術館・M.H.De Young Museum)、フェニックス展(ロスオリーヴォス美術館・Los Olivos Museum)

③百貨店との共催 = ピッツバーグ展(ギンベル百貨店・Gimbel Brothers)、ニューオーリンズ展(メゾン・ブランシュ百貨店・Maison Blanche)、ロサンゼルス展(メイ百貨店・May Co.)

④一般企業との共催 = モーリン展(ディアー&カンパニー・Deere & Co.農機具メーカー)、セントルイス展(ペット社・Pet Inc. 食品メーカー)

・百貨店との共催について

 ところで、わが国では一流デパートでの美術展や伝統工芸展の開催は珍しくない。また、立派なギャラリーを持つデパートもある。しかし当時の米国では、そして多分今日でもそうではないかと考えるが、商品の売買を本来の目的とする百貨店と美術館賞とは相容れないものと考えられていた。したがってアート・フェスティバルを百貨店で開催するについては、共催相手側はともかく、世間一般の眼にはかなり奇異に映ったようで、当初は批判的意見すらあった。

 しかし、実際には買い物のついでに美術を鑑賞する人も多数あり、また、わざわざそのために足を運ぶ人もあって。結果的には極めて好評を博し、多くの人に喜ばれたのだった。買い物客を含む一般大衆にも、芸術がより身近なものであることを改めて認識させる結果になった。

・ジャパン・アート・フェスティバルの国内展

 なお、付記すれば、海外でのアート・フェスティバルに先立って、東京の国立近代美術館では、その都度国内展示をおこなった。1965年12月の第一回国内展に始まって1971年に至るまでの毎年(1966年を除く)、計6回「日本芸術祭国内展示」として開催され、約3万人の入場者が記録されている。

 

・その後の変遷

 

 米国内巡回以降は、国際芸術見本市協会の財政基盤、事業内容、役員構成、事務局スタッフも大きく変わり、展示会開催地域は南米、欧州と広がりをみせ、さらに1978年にはその名称も変わり発展的解消を遂げた。(文中敬称略・肩書きは当時のもの)

 

 

*第二部 国際芸術見本市始末記・本編へは下記サイトからお入りください。

http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_2394.html

 

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