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2011/12/13

第一部 国際芸術見本市(ジャパンアートフェスティバル)の回想=(事業の概要)①

一、大学を卒業して

 昭和三十四(1959)年、早稲田大学第一法学部(当時は夜間学部を第二学部と称した)を卒業後、いささかの紆余曲折を経た。 卒業後数年間は、今日でいうフリーター生活を送っていた。デパート、郵便局、運送会社、製造工場など雑多な職場、職種での,それも数カ月単位の短期アルバイトだった。英語の家庭教師、自宅での英語翻訳の仕事もやっていた。丸の内の貿易会社にも正規社員として勤務したこともあったが長続きはしなかった。職もさることながら、住居も転々と変わり、東京都内のあちこちへ移り住んだのもこの頃である。

 時は、東京オリムピック直前、昭和三十七年から数年間は国電(現JR)山手線高田馬場近くで英会話学院の運営に携わったこともあった。練馬のグラントハイツや埼玉県朝霞市の米軍駐屯地キャンプドレイクに勤務する下級将校やその奥さん、GI(下士官兵をこう呼んだ)などを英字新聞屋口コミ紹介で募集し、講師として採用していた。最盛期には500人以上の生徒が在籍した。

二、国際芸術見本市協会(ジャパン・アート・フェスティバル・アソシエーション)

・一ドル360円の時代

 昭和41(1966)年の初頭から44(1969)年末までの四年間、社団法人国際芸術見本市協会という当時としては耳慣れない名称の団体に勤務した。これが本題の国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)との出会いであった。この四年間に米国への業務出張を頻繁に繰り返すことになった。

 当時の為替レートは一ドル360円の固定相場で、観光旅行など業務以外の渡航に持ち出すことができる外貨は500ドル(18万円)に制限されていた。日本からの年間の海外渡航者数は21万人程度で、それも業務出張が中心であり、観光旅行は一般庶民にとってはまだ高嶺の花であった。今日の年間海外渡航者数が1700万人を超える(2005年)ことから考えると、海外渡航が極めて珍しかった時代の稀有な体験であったと言えよう。

 成田空港が開港したのは1978年であるから、1966年当時の日本の玄関は羽田空港であった。現在の地方空港にも及ばない極めて素朴で牧歌的な雰囲気の屋外送迎デッキから、家族、職場の仲間や関連業者の人たちに見送られて、あるいは出迎えられて、当時の花形旅客機DC-8型機やボーイング707型機のタラップを昇り降りしたものであった。

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 サンフランシスコまでの太平洋横断には、まだホノルルで給油をすることが普通の時代であった。帰途にはウエーキ島に予定外の着陸することも二度ばかり経験した。

 当時、米国海岸へは日本航空で飛ぶのが一般的ではあったが、国際線航路で活躍していたパンアメリカン(PANAM)も今となっては懐かしい。その世界一周は香港から飛来して東京とサンフランシスコを結ぶ太平洋主要ライナーの一つであった。

 一旦帰国して、またすぐに出かけるような出張の繰り返しであった。主たる業務のためには比較的長期にわたる一か所での滞在が必要となる。しかし、その前後にはついでにあちこちの諸都市を、時には一泊乃至は数日ずつ立ち寄るというような多目的の出張が重なった。

 彼我の都合で、旅の途中での宿泊地やルートの変更は日常茶飯事、それも当日もしくは一、二日前という性急な変更が多かった。したがって、ホテルや航空機の予約はいつもオープンにして、空港で電話を入れるとか、前日に予約するなどの出たとこ勝負が続いたものだ。殆どすべての出張が一人旅であり、したがって仕事も他から制約を受けることなく、もっぱら自己判断で決定し処理することができたわけである。業務とは言いながらそのような自由な旅行を結構楽しんでいたような気がする。

・頻発した航空機事故

 ところで、この短い個人的体験を記すにあたって一つの感慨がある。そのころ日本国内では航空機事故が頻発していた。特に1966年は目を覆いたくなるような事態となった。

 まず、初めての海外渡航直前の2月4日、全日空ボーイング727型機が羽田沖に墜落(乗客乗員133人全員死亡)、滞米中の3月4日、カナダ太平洋航空DC8型機が羽田空港で着陸に失敗し岸壁に激突(死者64人、負傷者8人)、そしてなんとその翌日の3月5日には英国海外航空(BOAC)ボーイング707型機が富士山上空で空中分解(乗客乗員124人全員死亡)、11月13日、さらに全日空YS-11型機が松山沖墜落(乗客乗員50人全員死亡)という悲惨な状況が発生したのだった。

 昭和45年初頭の協会退職後の30余年間も、仕事の内容こそ百八十度変わったものの、もっぱら国際業務に従事し、当然のことながら海外渡航に伴う航空機の利用が続いた。 一見華やかな主要国際線だけではなく、アジアや中米の辺境とも言うべき地域へのローカル飛行も少なくはなかった。そしてその過程では多くのハプニングがあった。しかし航空機事故にだけは遭遇することもなく、無事にリタイアメントを迎えることができたことを、今日では奇跡的とも、また、幸運であったとも感じるのである。

三、わが国の芸術・文化を海外に紹介

 さて、本題の国際芸術見本市に入ろう。今でこそ、「芸術見本市」という言葉はどこかで耳にすることがあるかも知れないが、おそらく当時はこのような言葉は他には存在しなかったのではないか。

・通商産業省の認可団体として

 社団法人国際芸術見本市協会は別名を英語でJapan Art Festival Association, Inc.(ジャパン・アート・フェスティバル・アソシエーション)とも称した。当時、芸術振興に関心を持つ超党派の国会議員の有志によって結成されていた芸術議員連盟(会長は中曽根康弘)のメンバーが中心となって、なぜか文部省や文化庁ではなく、通商産業省の認可団体として1965(昭和40)年に発足したばかりの組織であった。

 初代の会長は永野重雄(富士製鉄社長)、一年後には副会長の藤井丙午(八幡製鉄副社長)に引き継がれた。顧問に中曽根康弘、駒村資正、山際正道、理事長には民社党代議士で、若い頃から文学、絵画をよくした麻生良方であった。 

 理事には芸術議員連盟に属する各党両院議員や美術評論家が、作品選考委員には原弘、今泉篤男、富永惣一、野間清六、河北倫明、嘉門安雄、久保貞次郎、岡田譲、小山富士夫、山田智三郎などの美術評論家や建築家丹下健三が名を連ねた。

・公的補助金と財界寄付

 芸術見本市の名が示すように、また、国の支援を受けるとは言いながら、所管機関が通商産業省であり、日本貿易振興会(ジェトロ)であることは、この事業が単に芸術紹介を目的とした文化交流事業に留まらないということであった。もちろん、わが国の文化・芸術を広く海外に紹介しようという大きな目的があったのだが、それ以上に、将来わが国の美術品や芸術のための海外市場を開拓しようという意図があった。いたがって事業の予算措置には、ジェトロを通じての公的補助金と財界(芸術、文化の振興や国際交流に熱心な企業、業界団体など)からの寄付金に大きく依存していたのだった。

       (・・・・・第一部 国際芸術見本市(ジャパンアートフェスティバル)の回想=(事業の概要)②へ続く)

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