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2011/12/01

歌は世につれ(4) = 父母のこえ

・父母のこえ

♪太郎は父の故郷へ  花子は母の故郷へ
 里で聞いたは何のこえ  山の頂 雲に鳥
 希望(のぞみ)大きく育てよと  遠く離れた父のこえ

♪太郎は父の故郷へ  花子は母の故郷へ
 里で聞いたは何のこえ  浦の松風 波の音
 生命(いのち)清しく生い立てと  遠く離れた母のこえ

♪太郎は父の故郷へ  花子は母の故郷へ
 里で聞いたは何のこえ  雲の筋ひく荒鷲の
 夢も大きく羽ばたけと  空の遥かで父母のこえ

♪太郎は父の故郷へ  花子は母の故郷へ
 鍬にさくさく土のこえ  草も巌も語るこえ
 心雄々しく生き行けと  遠い祖先の語るこえ

題名は「父母のこえ」、子供心に淋しく聞こえたメロディーである。 

 米軍による激しい本土爆撃が続いた敗戦の前年、昭和19年(1944)の春。空襲による被害が比較的少なかった故郷の京都市でも、戦火を逃れるために国民学校(小学校)児童の疎開、いわゆる学童疎開が本格的に始まった。

 

原則的には、田舎の親戚などを頼っての縁故疎開が推奨されたようだが、そのような親戚のない子供達は、学校単位で実施された「集団疎開」に参加した。

 

 両親、兄弟、姉妹の大家族を離れて丹波の山村(現在の亀岡市稗田野町)に単身縁故疎開をしたのが国民学校四年生進級直前の春休み。現在の観光地トロッコ列車・保津川下りのコースは、当時は黒煙噴き上げる蒸気機関車の山陰本線だった。保津峡にそって七つのトンネルをくぐり、亀岡駅からは木炭バスにゆられて二里(8キロ)の道のり、家のすぐ前まで山すそが迫る農村だった。

 

 学校での授業はほとんどなく、毎日、荒地の開墾や食糧増産のための農作業に駆りだされた。あとは連日地元の子供たちと山野を駆けまわる日々。夏を待たずに近くの灌漑用の泥沼で泳いだりした。菱(ヒシ)のつるや実が水面を覆い、カイツブリが其処ここに巣を作っていた。

Photo_1

戦後60年余をへて・・・・・

 大阪、神戸への空襲が激しくなり、西の空が赤黒く霞む日々もあり、時には灰や燃えカスが落下することもあった。米軍の艦載機の機銃掃射の標的にならないようにと、白いシャツは紺色や黒に染めるようにとの学校からの指示があったのもこのころ。

 戦後60年余を経た数年前、久しぶりに村の沼を訪ねてみた。かつて子供たちの歓声でにぎわった沼は、今ではすっかり草深くなってひっそりと水面を光らせていた。祭でにぎわった鎮守の森も人影は絶え、ただ蝉の声だけが往時のままであった。

 *本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイトをご参照ください。

http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html

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