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2009/04/11

高齢者と運転免許

  運転免許証をとって45年、未だに車が手放せないのは、日々の買い物と二人の病院通いが理由である。

 家内のお伴をしてウィークデーのスーパーマーケットに行く。牛乳、ヨーグルト、豆腐、肉、冷凍食品、野菜等々、結構目方が張る。これにコメでも買えば女性一人の体力では持ち運びは不可能だ。

 年をとれば身体のあちこちに故障が起こってくる。よく冗談に言う「病気のデパート」症状となる。整形外科、眼科、歯科、そしてもちろん内科も、それも消化器科、循環器科などなど。どこの病院も駐車場は車で溢れている。

 そんなわけで、経済的には大きな「金食い虫」の車ではあるがやはり日頃の便利さから車が手放せない。

 一方、高齢者による運転事故が多発しているようだ。70歳以上のドライバーには、免許更新に際して高齢者講習が義務付けられており、75歳以上の者には、認知症チェックも付加されるとのこと。金も時間もかかる。高齢者にとっては、車の運転はますます歓迎されざる時代になってくるようだ。

 そんなことを考えながらも、今日も車で出かけていく日々である。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/

 

2009/04/15

食の季節感 - 鯖寿司

  ふるさと京都の氏神である松尾大社の春のお祭り(神幸祭)は昔から四月の後半(現在は第4日曜日)。木々の新芽が出始める頃。当時も今も咲き誇る山吹が見られる。 子供の頃、この日には鯖寿司を食べたものだ。もちろん自家製である。

 すし飯を抜くための抜き型(木枠)、作業台、包装材となる竹の皮、出来上がった鯖寿司を容れるための大型の木箱など必要な用具が所狭しとばかりに台所に準備される。

 季節の生鯖は若狭から運ばれてきたものを母が予め10尾あまりも仕入れておく。三枚に下ろして小骨を抜き、酢締めなどの下拵えを手際よくやって置く。合わせ酢で寿司飯を準備する。大家族で暮らしていた当時は、炊く米の量が3~4升にもなった。これを前日の夜に洗って、大笊に入れて水を切っておく。

 当日は、家中に酢飯の香りが充満する。年長の姉たちは多少の手伝いはするが、我々悪童共は何の役にも立たないどころか、あわよくば出来立ての寿司のおこぼれに与かろうとうろうろするのみで、かえって母の仕事の邪魔になるのであった。

 出来上がった鯖寿司は、一本々丁寧に竹の皮に包まれ、これも竹の皮でできた細紐で結ばれる。大型の木箱に20本余りが納められて、一晩重石をかけて台所の片隅に置かれる。程よく風味が増した鯖寿司は翌日には食べごろとなる。

 主婦にとっては、実に大変な労力と手間のかかる仕事であったが、昭和初期の女性達にとっては、この程度の作業は一年を通じて頻繁に巡ってくる折々の行事に伴う役割であった。 盆、暮れ・正月の準備、月々の仏事、着物の洗い張り、布団づくり、梅干作り、季節の漬物、等々・・・と際限がない。

 朝いつ起きたのか、昨夜は何時に床についたのか、そんなことは考えたこともなかった。いつも起きていた母。明治、大正、昭和、平成を生きた母だった。

  隣家から筍をいただいた。さっそく米糠汁で茹でて季節をいただく。わかめと炊いた若竹煮、筍ご飯、酢味噌和えなどで季節感を味わった。木の芽が風味を引き立たせる。

 春から夏にかけては、そら豆、絹さや、そして間もなく豌豆と季節の食の楽しみが続く。食べることは子供の頃からの大きな楽しみの一つであった。当然ながらすべては一家の主婦である母まかせであったのだが、子供心にも一年を通じて、折々のレシピ(というようなしゃれたものではないが、言うなればご飯のおかず)が季節の移り変わりとともに日々の楽しみとなっていた。

 筍、蕗、胡瓜、茄子、トマト、鰹、鱧、素麺、西瓜、芋茎、そして数々の京野菜等々と食の季節は巡っていく。芹、大葉、三つ葉、木の芽などが添えられる。また、盛り付けには葉蘭、南天の葉、経木などが活躍する。食べ物やそれらにまつわる演出から得られる季節感は感動的だった。旬のものは言うまでもないが、はしりものを味わうのも子供心にも楽しみだった。 

 何事につけても、人には皆それぞれの幼少の頃に培った季節感があるはずだ。ハウス栽培など農業技術のおかげで、今日では幸か不幸か一年を通じて大抵の食材が容易に手に入る。そして食の季節感も失われていく。 これを喜ぶべきか、悲しむべきか。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/

 

 

2009/04/22

JTB時刻表1000号発行 - 宮脇俊三著・時刻表昭和史

  「JTB時刻表1000号」が発行された。

 たまたま「時刻表昭和史」(宮脇俊三著・角川選書・昭和55年)の再々読を終えたばかりであった。

 宮脇俊三氏は若い時から本業の雑誌編集に従事しながらも、鉄道や列車時刻表などに大きな関心を持ち続けた鉄道ファンであった。のみならず、幼少時からの鉄道体験を歴史、文学のレベルにまで高めて著した文化人でもあった。元祖鉄ちゃんの一人とも言うべきか。

 「時刻表昭和史」には、昭和初期から昭和20年8月の終戦に至るまでの著者の個人的な鉄道体験が詳述されている。鉄道や時刻表に委ねられた時代背景には読者の興味は尽きない。 東海道・山陽本線のみならず地方本線の変遷が具体的に記されている。幼いころの著者の鉄道に対する興奮、感動ぶりがこちらの心にも伝わってくる。

 記述は昭和20年8月15日の終戦日の場面で終わる。当時新潟に疎開していた18歳の著者は、たまたま所用で東京からやってきた父上に同行して山形・大石田への小旅行をした。用事が済んで疎開先への帰途、米沢から坂町を結ぶローカル線・米坂線に乗り換えるために途中の今泉駅で列車の到着を待つ。正午に何やら重大放送があるということが耳に入る。

 真夏の太陽が照りつける蝉しぐれの中、今泉駅前広場に居合わせた人々がラヂオの玉音放送に耳を傾ける。

 何よりも著者が感動するのは、その数十分後に坂町行き列車が、動輪の間から蒸気を吐きながら時間どおりにホームに進入して来るシーンである。そこでは機関士や助手、駅の助役らが登場して、タブレットの受け渡しなどの日常作業が、まるで何事もなかったように遂行される。

 敗戦という大激震の直後にも拘わらずこの地域では汽車が時間どおりに運行されていたことに、著者は忘れることのできない印象を受けたのだった。著者のこの感動は読者にも十分伝わってくるのである。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/

 

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