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2008/10/02

マツタケ・まつたけ・松茸 (1/2)

 マツタケの季節が近づいてきた。産地に隣接する故郷の京都市内でも、化粧箱に収められた見事なマツタケが、錦小路の市場やデパートの店頭に並べられる。値段が一本1万円~2万円と聞いてもことさらに驚くこともない。欲しい人にとっては、それだけの希少価値があるということだろう。

 調べてみると、1940年代のマツタケの生産量は1万トンであったが今日では、せいぜい100トンがやっとらしい。

 昭和20年の秋、すでに戦争は終わっていたのだが、まだ、市内の親元には戻らず、学童疎開先の丹波(現・亀岡市)の山村に残留していた。当時、周辺の山に入ればマツタケはいくらでもあった。

 疎開先のおじいさんは、毎朝早くに起きて小一時間ほどかけて裏山をひと回りする。やがて腰に下げた竹かごをシメジやマツタケでいっぱいにして戻ってくる。シメジは朝の味噌汁の実になる。マツタケは、時には直火で焼いて醤油をたらし、それだけをご飯のおかずにして食べることもあった。

 近年マツタケの生産は激減してその市場価格は高騰するばかり。韓国、中国はおろか、北欧、アメリカ、カナダ産までが輸入されているらしい。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/

マツタケ・まつたけ・松茸 (2/2)

 昭和20年の秋、終戦直後の日本人は全国的な食糧不足に見舞われて極端にひもじい思いをしていた。学童疎開先であった丹波の山村は幸い戦災にも遭わずに比較的食べ物には恵まれていた。

 当時の山村の悪童たちの遊び場は周辺の山の中。山中の季節の木の実は結構なおやつになった。時には台所にある調理用の粗い岩塩をポケットに忍ばせて山に入る。マツタケの香りを頼りに、松林の木の根元を探る。たちどころに見事なマツタケを収穫する。

 それぞれの松林には、一応、縄が張られてはいるのだが、構わずに失敬する。この程度は大人たちも見て見ぬふりをしてくれたようだ。適当な空き地を見つけて焚火をする。直火でマツタケを焼く。焼き立てに粗塩を振りかけて、ふうふう吹きながら口の中へ放り込む。

 終戦後の数年間は、京都市の周辺の山々もマツタケが豊富だった。秋には松茸狩りが盛んであった。鶏肉や野菜などの具材を山に持ち込み、マツタケだけは現場調達という趣向であった。

 マツタケの生育についての科学的な知識は持ち合わせないが、なんでもアカマツの保全、成育と山里の人々の生活態様が大きく関係しているらしい。近年、シイタケのみならず実に多種のキノコ類が店頭を賑わしているが、マツタケの人工栽培は道遠しとのこと。

 *本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/

2008/10/03

早稲田大学「戸塚球場」

 戦時最後の早慶戦を描いた映画「ラストゲーム・最後の早慶戦」をみた。試合が行われた場所は早稲田大学「戸塚球場」。

 昭和29年に入学したときには「安部球場」と呼ばれていた。早稲田大学の所在地が新宿区戸塚一丁目であった。卒業してすでに半世紀になるが、数人の仲間で小さな同窓会「戸塚会」をつくり、今でも毎年小旅行を楽しんでいる。

 引っ越し魔ながら戸塚でも一時暮したことがある。現在の明治通りと早稲田通りの交差点が戸塚二丁目ロータリー。とにかく戸塚は懐かしい名前。そして現在は「西早稲田・・・丁目」、「高田馬場・・・丁目」と変わっている。戸塚の名前は、かろうじて大学周辺の一画に「戸塚町」として残っているらしい。

 大学受験で上京した時に転げ込んだ高校の先輩の下宿は「小石川林町」であった。都電で「霞町」へ用足しに行ったりした。「田村町」から新橋を抜けて「尾張町」まで歩いたりしたものだ。今日、小石川林町は「千石二丁目」、霞町は「西麻布交差点」、田村町は「西新橋交差点」、そして尾張町は「銀座四丁目」となる。

 因みにわがふるさと京都市の町名はどうだろう。京都府庁の所在地は、京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町、京都市役所は、京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町480、同志社大学は、上京区今出川通り烏丸東入、そして私がよく立ち寄る京都文化博物館は、中京区三条高倉。具体的で結構わかりやすい。

 米国では、特に大都会は「番地」を知るだけで容易に目的地に到達することができる。わが国でも、特に大都会では行政上の都合で歴史的な地名がどんどん消えていくのが惜しまれる。京都を持ち出すまでもなく、地方都市に行けば、まだまだ歴史的な地名、町名が残っているのは嬉しい。

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2008/10/22

コスタリカ - ひとつの異文化体験

 十年ほど前、JICA(現・国際協力機構)の短期専門家として、中米のコスタリカに滞在したことがある。日本政府が行う海外技術協力プロジェクトを支援するために幾度か往来した。滞在が一か月以上に及ぶこともあった。コスタリカは中米の優等生、軍隊を持たず教育を重視する政策をとっている。

 現地支援先の拠点は、日本政府がその創設を支援した生産性・経営開発指導機関であった。産業開発指導、専門家の育成、必要機材の供与などがプロジェクトの目的であった。 滞在期間が長期に及ぶ時には、所長室に隣接して自分の事務室を確保し、事務機器などを準備をしてもらう。そこが自分のオフィスとなる。事務室や講堂、実験室、教室等からなる建物は、ラテン特有のパティオを持つオープンな設計になっている。

 所長の秘書がこちらの事務補助を兼任してくれる。陽気なコスタリカの有能な「女の子」である。特有の開放的な設計ゆえに、廊下とも室内とも区別がつかないようなオープスペースに所長秘書はデスクを置いている。

 赤道に近いとはいえ、高地の首都サン・ホセは常春の陽気。一年中ブーゲンビリアなどの花々が咲き乱れている。時には大きなイグアナがのっそりと中庭に散歩に出てくる。小鳥たちも遊びに来る。のんびりした風土である。 そんな中米の人々は、老若男女、みな陽気である。ちょっと音楽が聞こえてくればすぐに拍子をとって踊りだす。

 さすがに日中の気温は多少上がり気味。開け放たれたドアを通して、流行りの陽気なサルサとかメレンゲとかいう中米特有のリズムが遠慮なしに侵入してくる。秘書のデスクには自前のミニコンポが置いてある。若い秘書は体をゆすりながら毎日の仕事が楽しそうだ。

 こちらはあまり気にもならないのだが、日本からの同僚が異議を唱えた。執務中の音楽をやめさせるようにと所長に申し出た。所長の顔は一瞬困惑気な表情に変わった。その秘書が終日音楽を聴きながら執務していることは全く自然なことであり、所長にとっても、百数十人いるスタッフにとっても特段に異例なことではなかったのだ。

 結局、我が同僚が妥協することになった。この一件は若い秘書に伝えられることもなく、彼女はその後も終日音楽を楽しみながら忠実に業務を果たしていたのだった。現役時代にしばしば訪れたフィリピンでも同じような体験をしたことを思い出した。異文化体験のひとつであった。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/

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