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2008/08/25

まぼろしの「嵐山劇場」

過日(8月13日付)は坂口安吾の「戦争論」を紹介して、原子爆弾などの超破壊的兵器についての戦後の彼の考え方を紹介した。

ところで安吾といえば、昭和17年に発表した「日本文化私観」というエッセイの中で、昭和12年初冬から13年の初夏まで京都に滞在し、その間に洛西の車折(クルマザキ)にあった「嵐山劇場」というところへ足繁く通ったことを記している。

最近、少なからぬ安吾の愛読者達が、その「嵐山劇場」なるものの所在を確認すべく腐心していることに気付いた。多くの方々が嵐山劇場について調べはするものの、今日では私の郷里、京都嵯峨野でもこの劇場について知る人は少ないようである。

私は1935年(昭和10年)生まれ。生れ故郷は京都の嵯峨野。京福電鉄(嵐電)車折駅から直線距離にして南に約1キロメートル。最近の中学校時代の同窓会において仲間に尋ねたところ、嵐山劇場の存在を知っていたものは、25人中私を除いてたった2人だった。72歳の世代にしてこれだ。

安吾は昭和12年頃にこの劇場に通ったらしいが、私と劇場との出会いは、昭和17年の1月、すなわち、太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃)の直後だった。その三ヵ月後に国民学校(小学校)に入学したのであるが、おそらくこの劇場は時節柄、その直後くらいに閉鎖されたのではないかと想像する。

ところで、その嵐山劇場の場所であるが・・・・

京福電鉄・嵐山線は京都の市中から西に向って走っている。四条大宮を起点として・・・・太秦・帷子ノ辻・有栖川・車折と、あと二駅で終点の嵐山となる。車折駅の南側に隣接して南側(嵐山に向って左側に)車折神社がある。線路を挟んで北側(右側)にほぼ隣接して劇場はあった。劇場に隣接して(西側に)クラシックな赤レンガ建ての変電所もあった。

私が二つ年上の兄とその仲間の悪童達数人と一緒に嵐山劇場に行ったのは昭和17年(1942年)1月2日。京都にしてはめずらしく、膝まで積もるような大雪の朝だった。その日は母が、現在64歳になる弟を自宅で出産するというので、悪童どもは劇場にでも行くべし、と早々に追っ払われたのだった。当時は、自宅出産が一般的であった。

すでに太平洋戦争が始まった直後の、しかも場末の(というよりは、畑に囲まれた人気のない)みすぼらしい劇場の出し物は、かすかな記憶を呼び起こすと、活弁つきのチャンバラ時代物映画と、いわゆる田舎芝居の二本立てであったような気がする。

たしかに「ひどくうらぶれた」劇場ではあったが、はたして便所の臭気が充満していたかどうか・・・そこまでは。

やがて、歌舞音曲はいっさい禁止の時代に突入していった。はっきりいえることは、昭和17年の正月には、まだ営業していたということだ。

*嵐山劇場については、若月忠信氏著「坂口安吾の旅」(春秋社)に、当時の新聞記事などを引用したより詳細な記述がある。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」については下記サイト「ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?」をご参照ください。http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html

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