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2007/12/02

落穂ひろい(16)学校給食・一杯の味噌汁

  学校給食について調べてみた。戦争がますます激しくなり、わが国にとって形勢不利が決定的となっていた昭和19年(1944)3月3日、政府は「決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件」を閣議決定している。

 その中身は、①実施区域は「現下ノ食糧事情ニ鑑ミ」6大都市とする、②実施開始は19年4月1日、③給食内容は、米、代用食、パンを含む昼食とする、等々であった。

 記憶を辿れば、昭和20年3月に京都市内の国民学校から丹波の山村(現在の京都府亀岡市)に転校疎開するまでは、昼食時には主としてコッペパンと味噌汁の給食を受けた。大豆の絞り粕(豆かすと称した)や高粱を混ぜたご飯が出ることもあった。食事中に敵機接近を報せる「警戒警報」のサイレンが不気味に鳴り響くことがあった。こんな時には、一気に味噌汁を飲み込んで、食器のお椀と食べ残しのコッペパンを給食袋に詰め込んで、教室の床下に潜り込んだり、ときには集団で家に向って一目散に駆け出したりしたものだ。

  「食糧増産」の掛声のもとに、都市部の利用可能な土地はすべて畑と化したのはこの頃からであった。個人宅地の庭、校庭、川の土手なども田畑に転用、そして荒地の原野や山林の開墾などもとどまるところがなかった。植えたものはサツマイモ、カボチャ、大豆など手当たり次第、70歳以上の人でサツマイモの蔓を食べた記憶のある人は少なくないだろう。「食べられる野草」に関する印刷物も配られた。

 終戦後、再び市内の学校に戻った。戦時中に中断した学校給食が復活したのは昭和22年(1947)1月という記録がある。因みに国民学校の呼称が廃止されて小学校となったのは昭和22年4月、私が6年生になったときであった。したがって戦後のほぼ1年間は小学6年生として学校給食を受けたことになる。

 戦後の数年間は激しい食糧難が続いた。特に米軍の爆撃を受けた被災者家族や、中国大陸や朝鮮半島などの外地からの引揚者は極度の欠乏に呻吟していた。そのような家庭にとっては復活した学校給食は大きな救いであっただろう。

 或るときクラスの生徒の一人が病気で学校を休んだことがあった。昼の給食時に生徒の母親がお椀の入った給食袋を持って学校にやってきた。お昼の給食の時間になるまで、遠慮がちに窓の外で待っていたようだった。やがて当番の生徒の一人からコッペパン一個を受取り、お椀に入れてもらった一杯の味噌汁を金属の弁当箱に移し替えた。それらを小さな風呂敷に包んで、こぼさないようにと注意を払いながら静かに去っていった。その姿は60年ほど経った今日でも忘れることができない。

 東京の大学に入学したのは昭和29年(1954)、大学の近辺や街には外食券食堂があった。その都度回数券のような外食券を渡すことによって米飯提供が受けられた。旅館や山小屋で食事をするにも、それに見合う米を持参する必要があったのもこの頃だった。当時、厳冬季の街中に餓死者や凍死者が出たことが報じられてもそれほど珍しいことではなかった。

 そして今は「飽食の時代」といわれる。肥満、過食、拒食、ダイエット、メタボ、グルメ、三ツ星レストラン・・・・

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記・あらすじ」は下記サイトからどうぞ

http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html

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