第三部 エピローグ - メイド・イン・ジャパンの健闘
・メイド・イン・ジャパンの健闘
一九六六年は戦後約二十年、わが国の生産性向上も軌道に乗りはじめて、産業経済力もようやく先進国の仲間入りをしようというところに近付きつつあった。
当時を遡ること約十年、昭和三十年代はまさにわが国が貪欲に海外から多くを学び取った時代である。生産性向上を旗印に、欧米の科学的経営管理に独自の修正を加えて日本的経営管理の開発に成功したのであった。工業製品について言うならば「メイド・イン・ジャパンは安物の代名詞」であることを完全に返上するのはこれから未だ一、二年後のことであった。このことは、米国への出張を足繁く繰り返す中で日々実感することができた。
米国における日本のプレゼンスの拡大は、単に経済分野だけにはとどまらなかった。特に戦後アメリカ知識階級の東洋文化に対する関心がこの頃急速に高まりつつあった。日本の絵画、彫刻、版画も国際的に高い評価を受けつつあり、このことがジャパン・アート・フェスティバル成功の大きな要因の一つともなった。いわば、日本文化や美術をはじめとする東洋文化全般に対する教養が、知識階級にとっての資格条件の一つになりつつあったといっても良い。
*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/
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