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2007/03/18

落穂ひろい(2)学童疎開

関連サイト:http://gastrocamera.cocolognifty.com/blog/2007/03/post_bf9d.html

 「学童疎開」と聞いてすぐ分かる人は何パーセントくらいいるのでしょうか。日本が二度の原爆を体験して終戦となったのが昭和20年(1945)8月15日。そのとき、私は国民学校(現在の小学校)の四年生。アメリカの飛行機による爆撃を避けて京都府下、現在は亀岡市の山村に学童疎開をしていました。

 その年の3月、親元を離れて縁故を頼って山裾にある小さな農村の藁葺の農家に預けられ地元の国民学校に通っていました。田舎に縁故を持たない同学年の大半の学童たちは、京都市の北東部、鞍馬の山中に集団疎開をしました。

 疎開先の田舎の国民学校では、終戦にいたる8月までは、学校に行っても授業は殆どなく、毎日が開墾、農作業の連続でした。当時、「太郎は父のふるさとへ、花子は母のふるさとへ・・・」という歌が淋しげなメロディーで歌われていました。確か題名は「父母のこえ」と言ったか。

           近年になって久しぶりにその地を訪れてみたPhoto_1疎開中の夏休みに水浴びをして楽しんだ灌漑用の泥沼は、60年後の今もひっそりと山裾に佇んでいた。ただし、子供の気配は全くなかった。(平成17年8月)

戦争が終わり、再び親元に戻りもとの小学校に復帰したのは同じ年の秋頃。中国大陸をはじめ海外から引き揚げてきた多くの学童が、新しい同級生として加わっていました。ついこの間までは、「日本は神国である。必ず勝つ」と教壇を踏み鳴らしていた学校の先生達は、一転「民主主義・・・・々々」と大変でした。

翌年新学期の国語の教科書は、1メートル四方くらいの粗末なわら半紙に印刷されたものを、それぞれ家庭に持ち帰って鋏で切り揃えて頁を綴じたことを記憶しています。

*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ: http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_9a53.html

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