第二部 国際芸術見本市始末記・シカゴ展(8)
・サンフランシスコへも立ち寄る
12月19日(月) (ロサンゼルス~サンフランシスコ)
七時三十分起床、ロスは快晴。ホテルのコーヒーショップで朝食を済ませ、九時を待ってサントリー事務所へ電話する。折り返し十時十五分に原田所長から電話があって、モービル・ビル六階の事務所へ会いに行く。同社の協力(特にNY展支援、賛助金など)を謝し、未だ先の話ではあるがロス展(メイ百貨店)計画についても説明しておく。全社的に好意的な感触。一時間ほど話して辞す。
ホテルに戻りチェックアウト。これより前に、夕刻のサンフランシスコへのフライトを午後二時十五分発のジェット・コミューターに変更しておいた。結果的には非常によかった。四時十五分にサンフランシスコのホテル、べバリー・プラザ(Beverly Plaza)に入ることができた。大陸横断輸送を担当するアジアティック・フォーワーダーズ社のウー氏(Mr.Wuu)に電話を入れる。シカゴからのトラックは明日到着の予定であるとのこと。
サンフランシスコ総領事館の佐々木領事へ電話する。展示会招待者リストは、デ・ヤング美術館関係が四〇〇組、総領事館関係が二五〇組、総計では一、三〇〇名。
佐々木領事によれば、花柳某なる日本女性舞踊家が出演希望を表明しているとのこと。予算のこともあり東京事務局と相談しなければ決定はできない、と伝える。
12月20日(火)(サンフランシスコ) 曇り
七時半起床。ホテル階下みどりで朝食。ウー氏から電話があり、本日、シカゴからのトラック二台が到着する、うち一台(バン・No.5375)の荷を降ろすとのこと。
ウー氏とともにデ・ヤング美術館へ行く。荷役担当のケッシンジャー、広報担当のロング、ディスプレー担当のグランドおよびキースの諸氏と打ち合わせる。キュレーターからは、今回の「企画展」スペースとしては二室を準備しているが必要であればさらに増やすこともできる、という積極的な申し出。期日が近付けば、皆本気になってくるものだ。
花柳女史より舞踊出演希望についての電話が入り、明日会いたいとのことだが、経費と会場スペースの点でいささか問題がある。どこの都市でも自薦、他薦が盛んだ。
12月21日(水) 晴
朝食を「みどり」で済ませて、九時三十分にロビーでウー氏を待つ。一緒に美術館へ行く。第二トラックが到着し荷降ろしを始める。
マグレガー氏に会っていろいろ話すが、例によってあまり要領を得ない。カタログ販売、作品販売(ブックショップで扱うがコミッション十%を欲しいとのこと)について話はまとまらない。この男にはなにも権限が無いのか?
ディスプレー担当のキース氏に招かれて、彼の自宅(典型的なビクトリア風の町家)でロング氏、寄宿人の日本人高橋氏も交えて昼食をご馳走になる。彼のお袋さんも一緒。
午後、一旦ホテルに戻ってから総領事館へ行く。佐々木領事からジョニーウオーカー(黒ラベル)を一本もらい、一本を預かる(東京の妹さんあてに)。
午後三時に約束どおり、美術館御用達のケータリング業者ヴォンローウエンフェルト氏に会い五時まで話す。レセプションのための宴会見積書を提出してもらうことにした。
午後五時過ぎに花柳女史が直接ホテルに来訪する。二階のロビーで七時まで話す。主宰する日舞グループの出演を希望している。個性的ではあるがその強引さにいささか辟易する。この申出はコストの点から考えても一寸難しい。シャワーを浴びて十一時就寝。
12月22日(木) (サンフランシスコ~ )
午前六時三十分に起床してタクシーで空港へ向う。空港で朝食をとる。九時、パンアメリカン航空でサンフランシスコを発つ。ホノルル経由、
12月23日(金) ( ~東京)
午後五時三十分羽田着。十四時間の飛行で、さすがに疲れた。空港では、青柳氏、世津子、石川君、英明の出迎えあり。家までタクシーで帰る。空港で青柳氏より給料と賞与を受け取る。夜、英明、自家中毒症状で嘔吐。
12月24日(土)
協会事務局へ出勤。理事長と事務局仲間に出張報告。半ドン。英明の具合良くない。
12月25日(日) 曇り
英明の具合がよくない。世津子は池袋でかっちゃん(義妹)と会い、西武デパートへ。鏡台を買う。
12月26日(月) 曇り
十時出勤。午後二時に八重洲北口の国際観光ホテル一階グリルで山田智三郎氏(共立女子大教授・美術評論家)と会う。クラブサンドイッチを食べながらシカゴ展示会の結果について報告する。さらに来年のサンフランシスコ展についての打ち合わせ。サンフランシスコへも行っていただく予定だ。
12月27日(火)
衆議院解散。
12月28日(水) 晴
風間君のお父さん昨夜急逝されたとのこと。夕刻、麻生理事長、青柳氏の三人で当面の対応につき協議をする。出張支度金(三九、〇八〇円)の支給を受ける。
12月29日(木)晴
今日は仕事仕舞い。夕刻、六本木ザ・イーストの金澤朗氏を訪ねて土産のジョニーウオーカー(黒)を渡す。渡航準備はほぼ完了している。
12月30日(金)
協会事務局は本日より休暇に入るが、十一時に事務所へ行く。ヒューストン・ナチュラルガス社(来年の第二回フェスティバル会場)への手紙を作成して投函する。
安川所長(大和運輸)の車で青柳、相沢の諸氏とともに風間さん宅の告別式に行く。午後一時二十分の出棺だった。
帰途、渋谷で降ろしてもらい、第一家庭電器へ行きトースターを買う(二、三五〇円)。新宿伊勢丹などに立ち寄り、午後六時頃に帰宅。英明にせがまれて、途中新宿ステーションビル内のコロンバンでデコレーションケーキを求める。
12月31日(土)
午前中は家の大掃除などを手伝う。午後四時に阿佐ヶ谷からお義母さん、かっちゃん(義妹)来る。一緒に食事をしてからテレビなど見る。年越し蕎麦を食べて十二時に就寝。
・二年目に入った国際芸術見本市協会
昭和42(1967)年1月1日(日) 小雨
十時に起床。お義母さん、かっちゃんは午後二時半すぎに帰る。再び出張を控えて今ひとつ落ち着かない正月ではある。
1月2日(月) 快晴
うららかな天気となった。風もなく快適だ。午前中英明を連れて団地内を散歩する。午後四時半に、石川君、中村君(共に後輩早大生)の両人、早稲田より来る。英明は喜び相撲を取ったりして大はしゃぎ。石川君ら、夕食後、午後九時半に帰る。
1月3日(火) 快晴
風もなく温暖。午前中、英明を連れて麹町の協会事務所までいく。事務所で短時間手紙などの整理をする。
帰途、英明の希望にて高田馬場で下車、不二家へ立ち寄りホットケーキを買う。さらにホットドッグも。
明礼節子さん(英会話生徒)が来ていた。一緒に夕食。明礼さんは午後八時前に帰る。夜、風間さんより電話があった。葬儀など無事に終わったとのこと。風呂。十二時前に床に入る。
1月4日(水) 快晴
十時起床。世津子は美容院へ。終日英明と一緒に遊ぶ。午後、三人で大和町駅(東武東上線・現和光市駅)近くまで散歩。埼玉銀行より五、〇〇〇円おろす。駅前の書店に立ち寄る。旅行中の読書のために、北杜夫「白きたおやかな峰」を買う。門田医院で胃薬をもらう。体調は今ひとつ。自重すべし。(第二部 シカゴ展おわり)
*本編「国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)始末記」は下記サイトからどうぞ:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/
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