« 第二部 国際芸術見本市始末記・サンフランシスコ展(3) | トップページ | 第二部 国際芸術見本市始末記・ホノルル展(1) »

2007/02/22

第二部 国際芸術見本市始末記・サンフランシスコ展(4)

2月25日(土) 晴

 昨夜の雨も一夜かぎり。九時半に起床。世津子より第一便届く。「みどり」で食事。マーケット・ストリートを散歩。週末はいつも手持ち無沙汰だ。

午後四時半、アジアティックの宮本氏の迎えで中道氏と三人でウイリアムズ副社長の自宅へ。そのあと、ウー氏宅へ行く。スキヤキなどで夕食。ほかに中国系夫婦と宮本氏の奥さんと娘さんも来て十一時半まで。中国語、英語、日本語が飛び交いにぎやかなこと、喧騒をきわめる! 零時すぎホテルに帰着。

2月26日(日) 晴

 十時起床。昨夜はいささか食べ過ぎたようだ。カフェテリアで朝食。マーケット・ストリートを散歩する。Museum of Artへ行くが日曜日は開館が午後一時とのことで入れない。ヴァンネス通りをカリフォルニア・ストリートまで歩きケーブルカーに。パウエルで乗り換えてフィッシャーマンズ・ワーフへ行く。繋留船(帆船など)三隻を見学して午後三時にホテルに戻る。船は何度見ても飽きることがない。殊に居室、厨房、診療所、酒保、エンジンルームなどは興味が尽きない。

ホテルに戻り夕方まで自室でテレビ。武士亭(Bush Garden)で夕食。深夜、十二時すぎに東京事務局より国際電話入る。午前三時まで寝付かれず。

2月27日(月) 晴

 七時起床。やや暑いくらいだ。カフェテリアで朝食。美術館へ行く。トラック一号は手配されていたが、三井OSKの手配も巧くなく、梱包も遅々として進まない。すべてがちぐはぐな段取りで気分がいらつく。中道氏も来る。午後五時に中道氏とともにタウンハウスへ行く。コーヒーハウスでサンドイッチを食べる。

午後八時に宮本氏の迎えでタウンハウスからホテルに戻る。堂本尚郎氏(在NY)へ電話を入れて作品返還について打ち合わせる。ヤーマコフ夫人から電話が入る。展示作品の花筵を買いたいとのこと。

2月28日(火) 晴

 八時十五分にウー氏の車で美術館へ。中道氏と終日美術館で仕事に立ち会う。

午後五時三十分、宮本氏の迎えで一旦宮本氏宅へ行く。ウー氏の家に回り四人でレストラン・ヤマトへ行き夕食。てんぷら、刺身、など。

チャイナタウンをブロードウエーまで散歩。更にレッド・ルーフ(Red Roof)へ行ってお茶を飲む。午後十時半ホテルに戻る。事務局(青柳氏)より手紙届く。午後十一時過ぎに東京より国際電話が入る。

3月1日(水) 晴

 美術館へ出かける前に長距離電話を二通。一、シカゴ美術館(J・Vスーェル氏)へ、売却作品代金授受の件について、二、篠田守男氏(在ヒューストン作家)へ、作品返還の件。

 美術館での絵画梱包作業は遂に完了した。次に工芸品の梱包に取り掛かる。中道さんとともにサター・ストリートのトライアングル・ギャラリーへ行き、富岡惣一郎氏(在米作家)の作品を返還する。

夕刻、三井OSKの杉本氏、田中氏に招かれてヤマト・レストランへ行く。食後、杉本氏とともに、オフ・ブロードウエーのイヴォンヌへ行きショーを見る。十時半ホテルに戻る。

・撤去作業ついに終わる!

3月2日(木) 晴

 美術館の梱包作業はすべて完了した。中道氏と一緒にアジアティック・フォーワーダーズ事務所へ。作業完了を祝して社長室で祝杯を上げる。帰途「みどり」で夕食後、午後八時半にホテルに戻る。吉瀬(友人)、世津子へ手紙を書く。

3月3日(金) 時雨、かなり寒い

 美術館へ。トラック荷積み作業中に突然のみぞれ、大いに慌てる。

昼食は中道氏とEL PORTALで。午後四時に完全に積載作業を完了、貨物はすべて埠頭倉庫へ移送した。一旦アジアティック・フォーワーダーズ社事務所へ行く。宮本氏の車でダウンタウンまで送ってもらう。

ベバリー・プラザ「みどり」で夕食。帰国に備えて荷物整理、部屋の片づけをする。洗濯を少々。国際電話をいれて世津子、英明と話す。英明は元気とのことで安心する。さて、この週末をサンフランシスコで如何に過すべきか?

3月4日(土) 晴

 九時半起床、みどりで朝食。終日為すべきこともなし。マーケット・ストリートを散歩する。エンポリアム、メイシー(ともに大衆向き百貨店)などで英明の衣類を求める。映画グランプリ(Grand-Prix)を見るべく行ってみるがすでに本日の切符は売り切れとのことで断念する。夜は、仕方なく部屋でテレビをみる。

三井OSK・杉本氏より本船が入港したとの連絡が入る。明日は船積みか?

3月5日(日) 晴

 七時起床。ホテルのカフェテリア、フォスターで朝食。三井OSKの杉本氏の電話連絡を待ってタクシーで午前十時に23番埠頭へ行く。三井OSK明倫丸の船長としばらく話す。本日の船積みは無いとのことゆえダウンタウンへ戻る。

マーケット・ストリート、ユニオン・スクエアなどを散歩ののち、杉本氏の車で海岸周辺をドライブ。夕食に招かれてヤマトレストランですき焼き。九時すぎにホテルに戻る。

・第一回アート・フェスティバルの作品が一年ぶりに日本へ

3月6日(月) 晴

 いささか睡眠不足だ。九時過ぎに再び杉本氏の車で23番埠頭へ行き一時間ほど船積み作業を見る。一年前の貨物のニューヨーク到着時を思い起こし感無量だ。

ネプチューン社(NY展以来の運送会社)へ電話を入れて、支払小切手を書留航空便で送る。

カリフォルニア銀行(Bank of California)口座からすべて現金で引き出す。ウエルズファーゴ銀行(Wells Fargo Bank )で富士銀行宛、受取人は事務局青柳名義で送金小切手(Remittance Check)を手配する。これですっきりする。

美術館へ行くがマグレガー、チャールズ・ロングの両氏には会えなかった。ホテルに戻り四時半から七時半までベッドの上でうたたねする。夕食は「みどり」で。午後十一時、青柳氏より国際電話入る。送金小切手はすでに手配済みであることを伝える。

3月7日(火) 

 九時半起床。正午にアジアティック社のウー氏と会い、コロニアル・レストランで食事をしながら一切の報告を受ける。一緒にデ・ヤング美術館へ行く。またもマグレガー氏らは不在で、秘書にいくつかの伝言を頼む。午後四時半までアジアティック社事務所にとどまる。副社長のウイリアムズ氏に別れを告げる。ウー氏に送られて六時にホテルに戻る。

 

 みどりで夕食後ビクトリアホテルの武士亭で三井OSK杉本氏と会い船積み完了の報告を受ける。ビールで乾杯。風呂。

(手許にある古いパスポートには、三月九日帰国のスタンプが押されている。)

 追記= 前年の三月にニューヨークで始まった第一回ジャパン・アート・フェスティバル巡回展の展示作品は、こうして約十五ヶ月ぶりに日本へ戻ってきた。現地で売れた作品や、現地から直接返還された海外在住作家の作品を除けば、すべて横浜に陸揚げされ、いったん大和運輸美術梱包所に集積、あらためて再梱包の後に全国に点在するそれぞれの作家に返還された。当然のことながら、それには少なからぬ時間とコストが必要となった。

 作品盗難や破損事故の生じた作家に対しては、当方から出向いて経緯を説明、陳謝をするとともに、不十分ながらも保険の範囲内で補償することになった。作家にとっての作品は、いわば自分が産んだ子供のようなもの、とても百パーセントの了解を得ることはできなかったことは言うまでもない。

 

    前述したように、第一回フェスティバルの巡回中には、すでに、第二回ジャパン・アート・フェスティバルの計画が進められ公的予算措置も講じられつつあった。開催期日、開催都市、会場などの決定、出展作家の選考、作品制作依頼、集荷、梱包など一連の国内作業に併せて、会場設計の依頼、カタログ作成の準備などが必要となる。第一回フェスティバルの米国内巡回に並行して、東京の事務局ではこれら一連の作業が進められていた。

4月22日(木)

 午後三時より赤坂プリンスホテルで協会理事会開催。

午後六時、赤坂「花千代」で第二回ジャパン・アート・フェスティバル、ホノルル展につき事務局打ち合わせ。出席は、麻生良方理事長、嘉門安雄選考委員、事務局より青柳、風間、筆者、乃村工芸より前田、加納、会場設計担当として三輪正弘の諸氏が出席した。

 ホノルルにおけるジャパン・アート・フェスティバル予算は、自転車(日本自転車振興会)よりの補助金一千万円、自己資金一千万円、総額二千万円の予定である。実行予算を検討する。(サンフランシスコ展おわり)

« 第二部 国際芸術見本市始末記・サンフランシスコ展(3) | トップページ | 第二部 国際芸術見本市始末記・ホノルル展(1) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 第二部 国際芸術見本市始末記・サンフランシスコ展(4):

« 第二部 国際芸術見本市始末記・サンフランシスコ展(3) | トップページ | 第二部 国際芸術見本市始末記・ホノルル展(1) »

2021年12月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ