第二部 国際芸術見本市始末記・シカゴ展(6)
12月8日(木) 曇り、温暖
午前八時起床。夢ばかり多くて睡眠に充足感がない。パーマハウスのドラッグストアでジュース、ワッフル、紅茶の朝食。美術館へ行く。
第二便トレーラーで残りの空き箱が届くが、やはり同様に水浸し! 野積みにしていたとしか考えられない。ホテルへ戻りネプチューンの責任者たるポラック氏へ電話を入れ、責任ある回答を求めるがはなはだ要領を得ない弁解ばかり。
追記= 梱包・運送関連業者による不適切な貨物の取扱いや作品破損などの事故に遭遇して、米国内での業務下請け、再下請けのあり方に大きな疑問と不安を感じ始めたのはこの頃からである。
当初、わが協会の直接取引相手は大和運輸のみであったが、その関係
はNY展終了時点までで、以後は米国内業者との個別的直取引に移行して行った。
すなわち、大和運輸の米国内提携先であるアジアティック・フォーワーダーズ社 à
ネプチューン社(第一線のトラック輸送担当)の流れの中での直接取引に移行して行ったのである。その結果、契約業務の的確な管理が難しくなってしまった。さらには、現地の共催相手側から提供される開梱、展示、再梱包等の役務サービスの質が微妙に絡んで、事故原因や責任所在の特定がますます困難になるのであった。
昼食はサンドイッチ、あまり食欲はないがコカコーラで流し込む。午後はもっぱら彫刻の梱包。重量物には梃子やスキッドなどを用いているが、屈強な男達がかなりてこずっている。
午後五時、作業終了後にClark & Divisionへ。浜西氏と会い一緒に夕食。清張「溺れ谷」と缶詰二個を渡す。浜西氏のアパートへ行き、十一時四十五分に辞す。ホテルに戻りシャワーを浴びて床についたのが、すでに午前二時。
12月9日(金) 曇り
寝過ごして八時四十五分に起床。
美術館のカフェテリアで、展示作品のサンフランシスコへの陸上輸送について、ピッケンズ・ケイン(Pickens-Kane Pacific Intermountain Express・ネプチューン社の陸上運送下請け)の人々と打ち合わせる。梱包作業はかなり順調に進んでいるが、荷積みは十六日頃になるとのこと。今日から工芸品の梱包に取り掛かる。絶対に目を離してはいけない、もっとも気を遣うアイテムだ。
東京事務局へ手紙。夕食にはまたClark & Divisionへ (牛鍋)。夜、金澤(朗)さん、小林さん(中曽根議員秘書)へ手紙を書く。
12月10日(土) 雪
終日粉雪が激しく舞う! この雪ではクリスマスの雰囲気も盛り上がろうというもの。午前七時に目覚まし時計で起床。職人達の朝は早い。小品が多い工芸品の梱包なのでどうしても八時からの現場立会いが必要である。四六時中の監視が必要。万一、梱包漏れが発生しては大変だ。漆、竹細工などは取扱い方法に最も細心の注意を要する。
追記= 小品が多い工芸品の包装や梱包については、ロシアの人形「マトリョーシカ」あるいは日本の「入れ子」を思い起こす。
「香合」や茶器のひとつ「棗」(なつめ)などは、堆朱や蒔絵、漆塗などの小品であるが、これら小さな作品は、せいぜい十センチ立法程度の小箱に収められている。このような小品が、数個乃至はそれ以上にまとまとまってやや大き目のダンボール箱に収納される。そのダンボール箱はさらにまとめられて大きなダンボール箱に入れられる。最後にそれらがいくつか纏って大きな木箱
(クレイト)に収まるわけである。
梱包時には、最初の箱詰めから最後のクレイト収納に至るまで、パッキングリストに記載された作品が確実に梱包されていることを確認しなければならない。いったん梱包を終わったクレイトであっても、こちらの確認を経ていなければ再び開けさせて見ることも必要になる。箱があっても中身がない、ということもあり得るからだ。
世津子よりの第一便届く。昨夜書いた手紙を投函する。ついでにハガキ一枚を加えて、受け取ったことも知らせる。昼食は中華料理屋、How Kowまで行ってウォーメン(War Mein)を食べる。午後一時~六時再び仕事に戻る。雪は降り続く。夕食はトーキョー・ティーガーデン(State and Huron)まで行って天麩羅定食。帰りはホテルまで小雪の中を徒歩で。
歳末・クリスマス気分の夜の街は、人の流れが絶えない。救世軍が叫ぶ。歌う。買い物客で一杯の歳末風景である。風呂を浴びて早めに床に入る。
・日帰り強行軍
12月11日(日) (シカゴ~ニューヨーク~ピッツバーグ~シ カゴ)
ニューヨークは快晴・温暖、ピッツバーグは曇り、シカゴは曇りで寒かった。
午前五時に起床。五時四十五分のリムジンバスでオヘア空港へ向かう。シカゴ発七時。ニューワーク(Newark)空港着九時四十五分。バスを間違えてニューワークのダウンタウンへ行ってしまった。不注意によるニューヨークとニューワークの間違いだった。これで一時間を無駄にしてしまった。
追記= 当時、ニューヨークには、国際空港としてのジョン・F・ケネディ空港のほかに、主として国内航空用としてのラ・グアーディア空港とニューワーク空港があった。
十二時丁度にリバーサイドのゴードン夫人宅に駆けつける。懐かしいアパートメント。作品販売についての彼女の意見を聴取する。しかし、結局これという決め手はない。あるはずもない。要するにこちらが腹を決めて決断するほかに道はないということだ。当然だろう。
一時間後タクシーで、今度はラ・グァーディア空港へ。午後二時二十分発、ピッツバーグ着は三時三十分。空港のTWAロビーで一寸した人だかり。往年の名女優、ジョン・フォンテーン(往年の名女優、東京生まれ)に遭遇。オリビア・デ・ハビランドの妹だ。
空港からゼーンに電話をいれる。午後四時過ぎにゲートウェイ・タワーズの彼のアパートメントに着く。ヘレン(ゼーンの妻)とも久しぶりの再会。二人とも心から歓迎してくれた。心のこもった夕食をご馳走になり四方山話。
六時半、ヒルトン(Pit. Hilton)からリムジンバスでピッツバーグ空港へ。TWA航空で午後七時二十五分発、シカゴ着は午後七時三十分(現地時間)。八時半にホテル・パーマハウスに帰着。さすがにツカレタ!
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