第二部 国際芸術見本市始末記・ニューヨーク展(2)
1月19日(水)晴
昭和通りの大和運輸本社会議室で、貨物(展示作品、会場構成資材)の輸送についてアジアティック・フォーワーダーズ社長カミンズ氏(Mr. Cummins)を交えての打ち合わせ。午後いっぱいかかった。
1月20日(木) 風強く寒い
給料日、手取り48,900円。今日は英明の誕生日(三歳)。ケーキにローソクを三本立てる。
1月21日(金) 晴
ゴードン夫人から給与支払い請求の電報が外務省に入ったらしい。給与支払遅延の釈明のために、午前中外務省文化事業部長を訪ね説明する。近日中に対処することを伝える。
展示物輸出に関する情報収集のため、午後、大和運輸美術梱包所の安川所長と日本橋の東京銀行貿易相談所へ行く。一般的な話に終始したのはやむを得ないだろう。大和運輸の車で事務局に戻る。ホテルニューオータニへ国際電報を打ちに行く(ゴードン夫人宛)。
タクシーで四谷駅まで行き、帰途、高田馬場ロイヤル米会話学院へ立ち寄る。職員室でしばらく話して、午後九時に帰宅。
1月22日(土) 晴
風間、芦田(アルバイト)の両人欠勤。午前中大和運輸の安川さん来るが、米大使館は休館とのことで予定を変更する。
午後、事務局長と、学生アルバイトの越智さん(本日より勤務。某代議士の紹介とか。)を連れて三人で王子の大和運輸倉庫までタクシーで行く。初めて作品や展示用資材などに対面する。大小絵画展示用パネル、巨大壁面写真パネルの製作状況、テーマ・タワーの組み立てなどを実地検分する。メインテーマは秋田木材の合板をふんだんに用いた「筏」である。制作には実に金がかかり、輸送上は嵩張ることこの上なし。
追記= 丹下設計による絵画・版画など平面作品の展示方法は、従来の壁掛け方式ではなく、各作品に裏パネルを付し、そのパネルを一本ないしは複数の支柱が支えるという、いわば立て看板方式。会場フロアーを川面にみたてた「筏」はその基盤となる。
現場で、丹下健三、神谷、木島(ウルテック=丹下健三・都市建築設計事務所)、前田、杉本(乃村工芸)の諸氏と打ち合わせる。午後六時半、辞して三人で都心に戻る。
早稲田で車を降り、その足で明礼さん宅へ。英会話レッスン謝礼五千円を受け取る。
1月23日(日)薄曇
午後かっちゃん(義妹)留守番に来てくれる。英明を預けて世津子と共に新宿へ出かける。三越裏「つな八」で天婦羅定食を食べる。出張に備えて京王デパートで背広を注文(27,800円)。
かっちゃん七時半頃帰る。電話で、中野区役所へ渡航手続き用戸籍抄本の郵送を依頼する。今夜はこれからテレビでもみるつもり。
1月24日(月)快晴、風強く寒い
本日より九時半出勤となる。風間、芦田欠勤。
アメリカ大使館への説明は、大和運輸安川さんに依頼して、午前中は麻生理事長と外務省へ行き文化情報局長と会う。ニューヨーク展準備の進捗状況について説明、米国内在外公館の協力を改めて要請する。
ニューヨーク展以降の共催相手となるギンベル百貨店(The Gimbel Brothers)、シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)、M・Hデ・ヤング美術館(M.H. De Young Museum)、)へそれぞれ始めての企画提案書を作成、郵送する。
午後、六本木、ザ・イースト パブリケーション社へ。金澤朗氏と、展示会場での雑誌ザ・イースト(The Eastは同社発行の季刊誌)の現地販売について打ち合わせる。
1月25日(火)曇り
勤務終了後、事務局長、青柳氏の三人で有楽町「大雅」へ行って、河豚をたらふく食う。ふぐ刺し、ふぐチリなど。お二人はひれ酒も。その後、銀座八丁目辺りのバー三軒を回る。辛うじて東上線池袋発、最終電車成増行きに間に合う。成増よりタクシーで帰宅、午前二時就寝。
1月26日(水)快晴
暖かい。午前中は、事務局長、青柳氏の三人で衆議院議員会館の中曽根代議士の事務所へ。秘書の上和田義彦氏を紹介される。暫時雑談。
1月27日(木) 晴
十一時、メーシー百貨店大阪支店長ブザーテ氏が来訪する。同社の極東祭(Far-east Festival)における展示につき協力参加をして欲しいとのこと。麻生理事長、事務局長と四人で打合せる。
午後四時、麻生、事務局長、風間、私の四人で王子の大和運輸倉庫へ向う。作品、展示用資材、会場構成資材の梱包状況を検分。
夜、事務局長、風間、安藤、越智の五人で東京プリンスホテルへ行き、ロビーのコーヒーショップで打合せをする。サンドイッチとジュースなど。
1月28日(金)晴
終日何となく打ち過ぎる。ゴードン夫人へ手紙。ゴードンさん宛は連日だ。緊急時を除いて国際電話の使用は控えている。写真館で渡航用の写真を撮る。
1月29日(土) 晴
事務局長とスエヒロで昼食。食事中も海外出張の話に終始する。
午後一時に原宿のウルテック(URTEC)丹下事務所へ。各関係者による総合会議を開催する。出席者はウルテックから丹下教授、神谷、木島の三氏、乃村工芸、大和運輸、事務局。関係者からの現状報告。
夜七時、早稲田、明礼さん宅へ回る。英会話レッスン。
1月30日(日) 晴
午前中英明と散歩に出る。午後、英明、世津子と三人で新宿へ。京王デパートで背広の仮縫いをする。屋上でしばらく英明を遊ばせ、のち高田馬場へ回り、東宝パーラーで夕食。二人と別れてスクールバスで早稲田の明礼さんを訪ねるが、下宿棟には学生達もいなくてすぐに辞す。午後六時に帰着。
やっと電話機を取り付ける。しかし開通は三月とのこと。
追記= 当時、電話を引くには、電話電信公社から電話債券を購入しなければならなかった。十万円位であったと記憶するが、直ちに転売が可能であったので実際には金銭の授受はなく書類上の手続きのみで済んだ。ただし、実際に電話が開通するまでには一~二ヶ月程度は待たされた。
1月31日(月) 晴
暖かい。午前中、有楽町の東京交通会館へ旅券申請に行く。ついでに同所で渡航のための予防注射もする。
事務局長、風間、十返千鶴子女史、ニュージャパントラベル(旅行代理店)家子氏の五人で銀座中華第一楼へ行き昼食。
・パーティはブラックタイで
銀座セントメリー靴店で、フォーマルシューズ(イタリー製マレリ)を買う。一万円也。 明日はタキシードを注文の予定。これで支度金は全て飛んでしまうか!
追記= 当時の日本社会ではタキシードを着用する機会は極めて稀であったが、アメリカでは男性用の夜会用の略式礼服として多用されていた。黒い蝶ネクタイをつけるところからこの服装を「ブラックタイ」とも言い、パーティの招待状などにも書き添えて、服装を指定したものである。
タクシーで四谷まで。十返女史の車(いすずベレット)に乗り換えてホテルニューオータニへ行く。女史はニューヨークまで同行する予定。コーヒーショップで海外旅行のことなどしばらく話す。午後四時、事務局に戻る。
永野重雄会長名義で、ジャパン・ソサエティの協力に対する礼状をロックフェラー三世(John D. Rockefeller,3rd)宛に出す。
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