第二部 国際芸術見本市始末記・ニューヨーク展(1)
第二部 国際芸術見本市始末記 = 古い日記から
このころ筆者は満三十歳になったばかり、妻と、間もなく三歳の誕生日を迎える長男との三人で埼玉県北足立郡大和町(現和光市)に住んでいた。
昭和四十年の暮れには、教務主任兼講師として約三年半勤務したロイヤル米会話学院を正式退職して、新年度からは社団法人国際芸術見本市協会への入職が決定していた。年明けの正式採用を待たずに、前年度末までに何度か、東京は千代田区麹町の協会事務局へ足を運び、麻生良方理事長、事務局長をはじめ同僚スタッフの面識も得ていた。したがって、第一回アートフェスティバル・ニューヨーク展の進捗についてはほぼ状況を把握していたのだった。
(日記文中のカッコ内部分は今回追記したもの。組織名称・肩書き等は当時のもの、一部人名には仮名を使用)
第一回ジャパン・アート・フェスティバル=ニューヨーク展
昭和41(1966)年1月1日(土)快晴
一年の計は元旦にあり。恒例の京都への帰省も昨年の十月に済ませており、正月三が日は久しぶりに自宅でくつろぐことになった。終日在宅。取り立ててなすべきこともなく英明(長男、あと三週間で満三歳)と散歩するなど、いささか手持ち無沙汰な正月だ。正月だからといって、なにか変ったことを期待する方が無理だろうけれど。
協会事務局風間嬢より速達書留で朱書「河北倫明氏の原稿」が届く。ニューヨークにおけるジャパン・アート・フェスティバルのためのカタログの序文。明日、もしくは明後日中には翻訳しておかねばならない。
追記= 河北倫明氏は東京国立近代美術館副館長、協会理事
夕刻、かっちゃん(義妹)来る。夜は三人でゲーム、トランプなどして過す。今年一年が、今日の天気のように晴朗、快適であってほしいものだ。忙しいのはいくら忙しくてもかまわないが、健康に留意が肝要だ。あとは専門知識を増やして仕事に習熟し、将来のいかなるチャンスにも備えることだ。
1月2日(日) 快晴、風やや強め
終日在宅、河北氏のカタログ挨拶文の翻訳を完了した。かっちゃん午後三時頃帰る。夜、銭湯に行く。これから手紙を一、二通書いてテレビでもみるつもり。
1月3日(月) 快晴、暖
午前中は戸外で英明と遊んだり、時には泣かせたり。午後二時ころ明礼節子さん(英会話個人レッスンの生徒)来訪。七時に帰る。夜はテレビ。 休日も残り一日となった。新しい仕事を控えての休日は、どうも気分的に落ち着かない。これは一体どういうことなのだろうか?
追記= 明礼節子さんは南早稲田で学生相手のアパートと声楽教室を経営していた。元歌謡曲歌手。米会話学院時代の生徒でもあった。
1月4日(火) 雨
正月三ケ日が過ぎて、とうとう雨が降り始めた。十一時すぎまで寝てしまう。午後、英明、世津子の三人で大和町駅(現東上線和光市駅)近くまで散歩する。タバコを三箱買って帰る。夜はカレーライス。正月料理が続いた後にはうまいものだ。いよいよ明日から仕事開始、今年は忙しくなりそうだ。風呂。
・全員が役付きの事務局
1月5日(水)快晴、暖かい
社団法人国際芸術見本市協会(ジャパン・アート・フェスティバル・アソシエーション・JAFA)初出勤である。事務局長のほかには青柳財務部長、風間展示部長、安藤嬢(経理担当)と私、ほぼ全員が役付きの計五名の小世帯だ。展示会カタログ翻訳原稿を六本木のイースト・パブリケーション社(金澤朗氏)まで届ける。
追記= 金澤朗氏は国際基督教大学講師。ロイヤル米会話学院の主任講師でもあった。協会への転職は金澤氏の紹介による。ザ・イースト・パブリケーション社を仲間と設立、英文雑誌「The East」を発刊し始めたばかり。
1月6日(木)快晴
暖かい。もっぱら翻訳作業。 六本木のイースト・パブリケーション社へカタログ制作依頼のための英文原稿を届ける。残業。夕刻より大和運輸(作品・資材運送担当会社)、乃村工芸(会場構成資材制作担当会社)などのスタッフが来て午後十時二〇分まで打ち合わせる。十一時半帰宅。
1月7日(金)快晴
暖かい。睡眠不足だ。ニューヨーク(ゴードン夫人宛)への手紙を翻訳、タイプなど。差出人は理事長麻生良方。午後、イースト・パブリケーションを訪問。事務所に戻り九時半まで残業。十時〇分帰宅。いささか疲れが溜まってきた感じがする。
1月8日(土)快晴
ホテルニューオータニへ国際電報を打ちに行く。Council on Foreign Relations(米国外交審議会)による中曽根康弘議員招聘に関する事務連絡。宛先はゴードン夫人。十二時半にイースト・パブリケーションを訪ねる。午後三時半頃まで雑談して辞す。
午後、世津子は英明を連れて阿佐ヶ谷へお義母さんを見舞いに。ロイヤル米会話学院(前職場)へ立ち寄る。高田馬場駅で世津子、英明と待ち合わせて不二家へ行く。再び協会事務局へ戻り一仕事。午後六時に帰宅。
1月9日(日)快晴
十時起床、散髪、朝風呂。一日中寒い。
1月10日(月)快晴
安藤嬢、混雑の新宿駅ホームで怪我をしたとか。忙中閑、終日これという仕事もなし。
1月11日(火)快晴
暖かい。四月初旬の陽気とか。安藤嬢、学生アルバイトの芦田嬢両人が休みをとる。今日は、事務局は事務局長を入れても四人だけ。NY(ゴードン夫人)宛手紙を作成。
六時半帰宅。夜はテレビ。三沢市で大火、三百戸消失とか、死者の無かったことが不幸中の幸い。十一時半就寝。
1月12日(水)曇り
午前中はNY宛手紙作成。午後、大和運輸美術梱包所の安川所長と赤坂のユナイテッドステーツ・ライン(United States Line)へ。船積みの打合せ。続いて東京税関(品川)へ挨拶に行く。
1月13日(木)雨
十一時、大和運輸の安川所長、風間さんと三人で再びU・Sライン(赤坂)へ。展示貨物の船積み(横浜出港)は二月三日と決定した。ニューヨーク到着予定は二月二十三日だ。午後、ザ・イーストの金澤朗氏来る。カタログ校正の件について打ち合わせる。
事務局長、風間さんとの三人で築地の東急ホテルの粟津潔デザイン事務所へ。依頼している展示用ポスターの草稿を下見する。来年度大蔵省予算の折衝にかかわる青柳さんの残業につきあって九時過ぎまで事務所で待機する。
帰途、駅前で寿司を買って午後十一時帰宅。
1月14日(金)晴
電車延着のため十五分ほど遅刻して事務局に出勤。風間嬢欠勤。午後二時、大和運輸安川所長が来訪し、事務局長らと一緒にホテルオークラへ行く。アライド・ヴァン・ラインズ=アジアティック・フォーワーダーズ社カミンズ社長と展示品等の輸送について打ち合わせる。午後五時半までかかる。後、ホテルのカクテルラウンジへ。
1月15日(土)晴
午前中は早稲田、明礼さん宅へ。二時間ばかり英会話レッスンのアルバイト。世津子、英明は阿佐ヶ谷のお義母さん宅へ行く。午後五時頃に高田馬場駅で世津子、英明と合流して帰宅する。夜はテレビなどみて過す。
1月16日(日)快晴のち薄曇
午前中は英明を連れ出して戸外で遊ばせる。いささか風邪気味だ。風邪薬を服用する。風呂。夜はテレビなど。
1月17日(月)快晴、温暖
風間、安藤両人が欠勤。午前中はもっぱらニューヨークのゴードン夫人からの手紙を翻訳する。午後、金澤朗氏来訪。ジャパン・アート・フェスティバルのカタログ制作について打ち合わせる。事務局長と三人でリド(近所の洋食屋)にて昼食。午後、大和運輸の安川所長、乃村工芸の前田部長が来訪。
夕方、六本木、イースト・パブリケーションまで原稿を取りに行く。タクシーで往復。七時半帰着。ニューヨーク(ゴードン夫人)への返信を翻訳する。
*本編を最初から読むには下記からどうぞhttp://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/
« プロローグ | トップページ | 第二部 国際芸術見本市始末記・ニューヨーク展(2) »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント