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2007/01/25

第二部 国際芸術見本市始末記・ニューヨーク展(4)

2月14日(月) 晴

 夜、食後に胃腸が猛烈に痛む。七転八倒、鎮痛剤を服用。

2月15日(火)

 昨夜の腹痛はこたえた。十時半に出勤してすぐに外務省へ。その後、事務局長の提案もあり、やむなく国立近代美術館に河北倫明氏を訪ねて、メーシー百貨店との展示契約に対する意見をもとめるが、意見を求められる方もいささか困惑の様子。

午後、事務局長とともに中曽根事務所(小林克己氏)を訪ねる。小林氏はなにかにつけてのよき相談役。

タキシード一式出来上がって来る。蝶ネクタイ、カフスボタン、カマーバンド、ポケットチーフなども揃う。

2月16日(水)

 午後、風間、芦田の三人で板橋の凸版印刷工場へ行きカタログの最終校正。細心の注意を払って作業する。

いささか吐き気あり。事務所には戻らずに池袋より直接帰宅する。八時半に帰着。風呂。

2月17日(木) 雨

 久しぶりの雨。メーシー百貨店のブザーテ氏大阪より戻り事務局に来訪する。なんとか極東祭における美術展を実現したいと言う。

仕立屋が来て、タキシード代金四万円を支払う。パスポート、ビザ、外貨準備など全てが整う。 

信定(弟)より手紙がとどく。十九日(土)午後一時東京着(ひかり16号)とのこと。母も同道とのこと。

2月18日(金) 晴

 早朝一番に、団地内門田医院へ行き風邪薬、胃薬などをもらう。十一時出勤。事務局長、風間君の三人で渡米のための挨拶まわりに(外務省、通産省、ジェトロ)。

夕刻より事務局全員で赤坂、ホテルニュージャパンへ行き、ロビーのコーヒーショップで打合せ。そのあとシャンゼリゼーにて夕食。十時半に帰宅。旅行準備をして零時半頃に就寝。

2月19日(土) 

 午後、母と信定が上京してきた。

夕刻、北海道から戻る中曽根代議士を羽田空港に迎える。代議士、事務局長、風間の四人で銀座ローゼンケラーへ行き夕食。ドイツ料理にビールなど。給仕に白人女性を使っている。

一旦協会事務局に戻る。大和運輸に対する支払遅延につきごたごたもあり午前一時まで。大和運輸の車で自宅まで送ってもらう。帰宅は午前二時であった。

・事務局がNYへ出発

2月20日(日)  (東京~ロサンゼルス)

 いよいよ出発の日。昼は寿司をとって皆で食べる。大型ハイヤーを頼み、午後五時、母、信定、かっちゃん、世津子、英明と共に雨の中を羽田空港へ向う。昼過ぎからひどい土砂降りである。

協会関係者、関係業者らに見送られて、午後十時半羽田空港を飛びたった。一行は事務局長、風間、私の三人と、同行者として十返千鶴子女史。あっという間に空が白んでくる。

 ハワイ・ホノルルで一時間のストップオーバー。ロサンゼルス空港に着く。シェラトン・ウイルシアーホテルに一泊。

追記 われわれ以外の関係者、すなわち大和運輸、丹下事務所(ウルテック)、乃村工芸のスタッフは、別便ではあるが殆ど同時期に相前後して日本を発ちニューヨークに向ったものと記憶している。

2月21日(月)(ロサンゼルス~ニューヨーク) 快晴

 ロサンゼルスは快晴。ニューヨークに向かう。J・Fケネディ空港では日航スタッフやジャパン・ソサイティの職員ペッチ氏の出迎えを受ける。

予約してあったリバーサイド八十七丁目のパーク・クレッセントホテル(The Park Crescent)にチェックイン。古いホテルだ。同じリバーサイドに住むゴードン夫人のアパートメントに近い。男性(事務局長、筆者)、女性(風間)に分かれて二部屋。われわれの部屋は広く、居間に隣接してキッチンネットが付き炊事が可能。

ニューヨークは今が厳寒期。暖房用か、街路のあちこちから白い蒸気が勢いよく吹き出している。

 

 

  追記パーク・クレッセントホテル(The Park Crescent)には同行の十返女史も投宿。その友人の徳丸某さんがニューポートニューズ(ヴァージニア州)からやって来て女史と同宿することになった。この間、夕食の準備などはもっぱら女性達に依存。十返女史は十日余り滞在してヨーロッパへ飛び立った。

二月二十一日のニューヨーク到着から三月二十二日のフェスティバル開催までの一ヶ月間は、われわれ事務局先発隊にとってはまさに試練の連続であった。NY総領事館、NYジャパン・トレードセンター(日本貿易振興会)、そして時には在米大使館の支援もあるにはあったのだが、第一部にも述べたように未経験の世界での初仕事はもちろんのこと、関係団体や出品作家との連絡・折衝に忙殺された。連日、五番街にあるジャパン・トレードセンターとリバーサイドのゴードン夫人のアパートメントに通い詰めることが日課であった。特にメディア相手のPR活動、日本使節団主催のレセプションの準備などに大童であった。通産省から出向中のトレードセンターの織田次長、日本語に堪能で何彼につけて有能なゴードン夫人の存在はこの時期、欠かすことのできない戦力であった。

ニューヨークのトレードセンターは、国際芸術見本市協会にとって公的補助の所管機関であるだけに、われわれの事業運営の拠点にもなった。現地業者やビジネス事情に関する豊富な情報は、われわれにとっては心強いことであった。今回の事業の対象が「芸術」であることを除けば、ジェトロにとって見本市は日常茶飯事のイベントに過ぎなかったのであるが、この「芸術」が大きな例外でもあった。

先発事務局の渡米とほぼ同時に大和運輸のスタッフが、続いて丹下事務所、乃村工芸のスタッフも現地入りした。

また現地事務局では、三月二十二日の一般公開直前に東京から安藤、芦田の両名が加わり、女性陣は先発の風間嬢を入れて三名となり、事務局長と筆者との計五名の態勢となっていた。

ジャパン・アート・フェスティバル最大のイベントの一つである三月二十一日のオープニングレセプションに関する詳しい記録はなぜか手許にはない。

写真はレセプション会場で出席者を迎える日本からの使節団代表者(向かって右から団長・藤井丙午協会会長、一人おいて中曽根康弘芸術議員連盟会長、一人おいて麻生良方協会理事長。

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第一部にも述べたとおり、一週間前には日本から藤井丙午副会長を団長とする大型使節団が米国に到着、当日はフェスティバル会場で華々しく開会を宣言した。会場では日米各界の著名人や、出展作家の一部を含む協会関係者多数が、わが国最高レベルの現代美術と伝統工芸の展示ならびに茶道、華道の実演を楽しみながら、丹下設計による壮大なディスプレーの間を往来した。会場には一柳慧、武満徹によってフェスティバルのために特別に作曲された現代音楽が終始流れていた。

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オープニングレセプション会場風景:左からジョン・D.ロックフェラー三世、石田博英衆議院議員、一人おいて麻生良方協会理事長

理事長との間の微妙な確執からか、この頃事務局長は帰国後の辞任を心中堅く決めているようであった。そんな事情が、現地での事業運営やスタッフの日常管理に影響を及ぼさないわけはない。渉外担当の職責を負う立場から常に事務局長と行動を同じくする必要もあって、日々会場に詰める女性スタッフ三人とは必ずしも十分なコミュニケーションをとることができなかった。事務局長はあとから加わった夫人の同伴が最後まであったものの、在米中は身体の不調を訴えて心身不安定の様子でもあった。

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