第一部 国際芸術見本市の回想(1)
第一部 国際芸術見本市の回想
一、大学を卒業して
昭和34(1959)年、早稲田大学第一法学部(当時は夜間学部を第二学部と称した)を卒業後、いささかの紆余曲折を経たものである。卒業後数年間は、今日でいうフリーター生活を送っていた。デパート、貿易会社、郵便局、運送会社、製造工場など雑多な職場、職種での、それも数日単位の短期アルバイトだった。英語の家庭教師、有名電力会社での比較的長期の補助的業務、自宅での英語翻訳などもやっていた。職もさることながら、住居も転々と替わり、都内のあちこちへ移り住んだのもこの頃である。
昭和37年から約4年間は、国電(現JR)山手線高田馬場駅近くの英会話学院に勤務した。時は東京オリンピック直前。英会話学習熱のおかげで最盛期には生徒数500人超が在籍した。その学院の経営管理を一任され、教務主任兼講師として勤務した。当初は短期のアルバイトのつもりであったが、これが本格的な月給取り生活の始まりとなった。練馬のグラントハイツや埼玉県朝霞市の米軍駐屯地キャンプドレイクに勤務する下級将校やその奥さん、GI(下士官兵をこう呼んだ)などを英字新聞や口コミ紹介で募集し、講師として採用していた。
私が元祖フリーターなんて間違ってました。
私は昭和34年生まれですもの。
ただ、職歴としては
赤坂のメイド・・・これはなかなかウケがいいです。
もちろんメイドカフェとは違いますよ。
お金持ちのわがままおばあさまの子守をしながら
水商売用のドレス会社のアルバイト
そして、ファイバーアート学校も行ってました。
投稿 yumikaori_n | 2007/04/26 02時11分