2007/01/17

ジャパン・アート・フェスティバルを知っていますか?

  それは、1960年代半ばから70年代にかけて、当時のわが国の現代美術、伝統工芸を集中的に巡回展示することにより、欧米をはじめ世界に紹介しようという画期的な試みでした。

  1966(昭和41)年、ニューヨーク・マンハッタンで開催された第1回国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)ニューヨーク展は、日本のトップクラスのアーティストによる美術と伝統工芸、茶道、華道、建築、音楽、写真、グラフィックスの総合的プレゼンテーションでした。

Img589 第1回ジャパン・アート・フェスティバルカタログNY展(装丁:原弘、表紙:粟津潔による)

 ニューヨーク展を皮切りに、当初数年は米国内主要都市を巡回しましたが、70年代には欧州、南米をはじめ世界の他地域でも開催されました。 特に美術分野では、従来の委嘱作家に加えて一般公募作家が参加するようになり、新進気鋭の若手の登竜門としての役割も果たすようになりました。現在第一線で活躍中の芸術家の中にも、その後のジャパン・アート・フェスティバルにかかわりを持った方は決して少なくないはずです。

 ジャパン・アート・フェスティバルは多くの人々の膨大なエネルギーと少なからぬ費用が投入されたにもかかわらず、その包括的な公式記録が存在しません。このままでは人々の記憶から永遠に忘れ去られかねません。ジャパン・アート・フェスティバルの資料的・記録的側面にこだわりながら、日本芸術海外展のモニュメントの一つとしてのこのプロジェクトの再現を試みました。

 「芸術見本市」というこの耳慣れない事業の実施団体は、社団法人国際芸術見本市協会でした。 筆者が協会に勤務したのは4年間。たまたま手許に残っていた1年半の日記(業務メモ)をもとに、全編を通じて折々の回想を追記、現時点での所感や反省を加えました。米国内における日本美術・伝統工芸の展示、茶道、華道の実演などを含む文化交流の顛末記です。

 内容は、海外美術展の裏舞台、とりわけ展示会開催にまつわる1960年代の内外のアート事情、現地でのビジネス体験、内外組織・団体機関とのかかわり、仕事上の人間模様、アメリカ人各層との交渉・交友等。それに加えて、当時の航空事情やホテル事情、当時としては稀有な体験ともいうべき海外出張旅行そのものについても。

 当然ながら組織に勤務するサラリーマンとしての個人的体験も含まれます。昭和40年代の初期に国際芸術見本市協会に勤務した当時30歳の筆者が、米国という異文化の中で体験したビジネス体験記でもあります。

 本編は中篇単行本一冊(280頁)程度になります。平成19年1月17日から3月7日までの約7週間、連日5~7頁程度の連載書込みとしました。時間の許す方は、ブックマークにでも加えて幾度かの訪問を重ねて最後まで気長にお付き合い下さい。

 時間に制限のある方は、プロローグ(1,2)、第一部・国際芸術見本市の回想(1~5)、エピローグをご通読いただくことにより、国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)の概要をご理解いただくことができます。

第1回ジャパン・アート・フェスティバル(JAF)出展者・作品リストはこちらからどうぞ: http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_751b.html 

カタログ制作は原弘氏、表紙デザインは粟津潔氏。この写真を見る 

第2回JAFリストは:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0f9c.html

第3回JAFリストは:http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_f555.html

        

*本編はこちらからどうぞ: http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_732a.html

本編目次

・プロローグ(1、2) http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_732a.html

・第一部 国際芸術見本市の回想(1~5http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/1_4863.html

・第二部 ニューヨーク展(1~5)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_2394.html

・資料:ニューヨーク展 出展作家リスト

・第二部 ニューヨーク展(6~12)

・第二部 ピッツバーグ展(1~9)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_1a9b.html

・第二部 シカゴ展(1~8)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_6720.html

・第二部 サンフランシスコ展(1~4)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_6494.html

・第二部 ホノルル展(1~3)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b502.html

・第二部 ヒューストン展(1~3)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_0dd8.html

・エピローグ ゆめまぼろしの四十年 http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_40b3.html

・落穂ひろい(補遺)http://gastrocamera.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_fc32.h

2007/01/18

プロローグ(1)

プロローグ

  高齢化社会といわれる今日、わが国の男性の寿命は80年に近付きつつある。健康でさえあれば、せめて95歳、できれば百歳くらいまでは生きてこの世の行く末を見極めておきたいというのが実は本音であった。すでに古稀を迎え、昨今の病と闘いながら病院通いを繰り返すようになれば、人生の旅路もいよいよ最終コーナーにかかり始めていると思わなければならない。少しは身辺の整理をしておこうと、古い日記や写真を取り出してみたものの、まだ、それほど本気ではないから、懐旧の念もあり、ついあれこれと引っかかってしまって、整理は一向にはかどらない。

 古い日記といっても、40年余以前のほんの一時期の業務を中心としたメモである。乱雑に記された数冊の大学ノートには、メモに加えて折々の心情や雑駁な感想を述べており、また、当時の社会現象や世相について多少のコメントを記している。 

プロローグ(2)

その日記が、当時30歳であった筆者と、日本芸術の米国巡回展示会「国際芸術見本市」(ジャパン・アート・フェスティバル)との出会いにかかわるものである。昭和41(1966)年に始まった国際芸術見本市は、後述するようにわが国芸術の海外展開の歴史に確実にひとコマを刻んだイベントであった。かつて、このひとコマに多くの関係者の膨大なエネルギーと少なからぬ費用が投入されたことを思うとき、ましてやそれに関する総括的な記録も殆ど残されておらず、やがて人々の記憶からも永遠に消え去っていくことはなんとも忍びがたい。そんなことから、せめて此処にささやかなモニュメントを遺すべく筆をとった次第である。 

ところで、ここ数十年来、社会のあらゆる分野で急速に国際化が進み、海外との接触が日常茶飯事になっている。今日からみれば、筆者の当時の海外体験は必ずしも特異なものではないかもしれないが、筆を執ったもう一つの理由は、今から41年前のアメリカという異文化の中での自分達の未熟な知識、経験を振り返えることにより、当時の内外の芸術やビジネス事情の一端を再現しようということである。

ほぼ一年前に東京オリンピックを体験し、四年半後には大阪万国博覧会を控えていた頃、おっとり刀で国際舞台に繰り出して行った当時の日本人ビジネスマンの周章狼狽振りに昭和初期世代の体験を垣間見ていただければその目的の一部は達せられるものと考える。

国際芸術見本市(ジャパン・アート・フェスティバル)の全体的概要は、第一部の「国際芸術見本市の回想」と「あとがき」で、各地のアート・フェスティバルの具体的かつ詳細な経緯、手順、顛末については、主として古い日記にもとづいて第二部の「国際芸術見本市始末記=古い日記から」として記した。

きわめて短い期間であるにもかかわらず、どういうわけか古い日記には所々に欠落部分がある。また、記した当時の記憶も薄れがちになり、なかには書いた本人自身にも意味不明の部分もあったが、41年後の今日の視点から多少の追記を施すことによりその部分を補った。

2007/01/19

第一部 国際芸術見本市の回想(1)

第一部 国際芸術見本市の回想

一、大学を卒業して

昭和34(1959)年、早稲田大学第一法学部(当時は夜間学部を第二学部と称した)を卒業後、いささかの紆余曲折を経たものである。卒業後数年間は、今日でいうフリーター生活を送っていた。デパート、貿易会社、郵便局、運送会社、製造工場など雑多な職場、職種での、それも数日単位の短期アルバイトだった。英語の家庭教師、有名電力会社での比較的長期の補助的業務、自宅での英語翻訳などもやっていた。職もさることながら、住居も転々と替わり、都内のあちこちへ移り住んだのもこの頃である。

昭和37年から約4年間は、国電(現JR)山手線高田馬場駅近くの英会話学院に勤務した。時は東京オリンピック直前。英会話学習熱のおかげで最盛期には生徒数500人超が在籍した。その学院の経営管理を一任され、教務主任兼講師として勤務した。当初は短期のアルバイトのつもりであったが、これが本格的な月給取り生活の始まりとなった。練馬のグラントハイツや埼玉県朝霞市の米軍駐屯地キャンプドレイクに勤務する下級将校やその奥さん、GI(下士官兵をこう呼んだ)などを英字新聞や口コミ紹介で募集し、講師として採用していた。 

第一部 国際芸術見本市の回想(2)

国際芸術見本市協会

1ドル360円時代                                           昭和41(1966)年の初頭から44(1969)年末までの四年間、社団法人国際芸術見本市協会という当時としては耳慣れない名称の団体に勤務することになった。これが本題の国際芸術見本市との出会いであった。この四年の間に米国出張を頻繁に繰り返すことになった。

 当時は為替レートが一ドル360円の固定相場制で、一回の観光旅行に持ち出すことができる外貨は500ドル(18万円}に制限されていた。日本からの年間の海外渡航者数は21万人程度で、それも業務出張が中心であり、観光旅行は一般庶民にとってはまだまだ高嶺の花であった。今日の年間海外渡航者数が1700万人を超える(2005年)ことから考えると、海外渡航がまだ極めて珍しかった時代の稀有な体験であったと言えよう。

 成田空港が開港したのが1978年であるから、1966年当時は羽田空港が日本の玄関であった。現在の地方空港にも及ばない極めて牧歌的な雰囲気の屋外送迎デッキから、職場の仲間や家族に見送られて、あるいは出迎えられて、当時の花形旅客機であったDC8型機やボーイング707型機のタラップを昇り降りしたものであった。サンフランシスコまでの太平洋横断にはまだホノルルで給油をすることが普通の時代であり、何故か帰途に北太平洋のウエーキ島に予定外の着陸をすることも二度ばかり経験した。

 当時、米国西海岸へは日本航空で飛ぶのが一般的ではあったが、国際航路で活躍していたパンアメリカン(PANAM)も今となっては懐かしい。その世界一周便は香港から飛来して東京とサンフランシスコを結ぶ太平洋主要ライナーの一つであった。

臨機応変の出張旅程

一旦帰国して、またすぐに出かけるような出張の繰り返しであった。主たる業務のためには比較的長期に渡る一ヵ所での滞在が必要となる。しかしその前後にはついでにあちこちの諸都市を、時には一泊乃至は数日ずつ立ち寄るというような多目的の出張が重なった。彼我の都合で、旅の途中での宿泊地やルートの変更は日常茶飯事、それも当日もしくは一、二日前という性急な変更が多かった。したがってホテルや航空機の予約はいつもオープンにして、空港で電話を入れるとか、前日に予約するなどの出たとこ勝負が続いたものだ。殆どの出張が一人旅であり、したがって仕事も他から制約を受けることなく、もっぱら自己判断で決定し処理することができたわけである。そのような自由な旅行を結構楽しんでいたような気がする。

2007/01/20

第一部 国際芸術見本市の回想(3)

・頻発した航空機事故

ところで、この短い個人的体験を記すに当って一つの感慨がある。そのころ日本国内では航空機事故が頻発していた。特に1966年は目を覆いたくなるような事態となった。まず、筆者の初渡航直前の2月4日、全日空ボーイング727型機が羽田沖に墜落(乗員乗客133人全員死亡)、滞米中の3月4日、カナダ太平洋航空DC8型機が羽田空港で着陸に失敗し岸壁に激突(死者64人、負傷者8人)、そしてなんとその翌日の3月5日には英国海外航空(BOAC)ボーイング707型機が冨士山上空で空中分解(乗員乗客124人全員死亡)、11月13日、さらに全日空YS―11型機が松山沖墜落(乗員乗客50人全員死亡)という悲惨な状況が発生したのだった。

昭和45年初頭の協会退職後の30余年間も、仕事の内容こそ百八十度変わったものの、もっぱら国際業務に従事し、当然のことながら海外渡航に伴う航空機の利用が引き続いた。一見華やかな主要国際線だけではなく、アジアや中米の辺境とも言うべき地域へのローカル飛行も少なくはなかった。そしてその過程では多くのハプニングがあった。しかし航空機事故にだけは遭遇することもなく、無事にリタイアメントを迎えることができたことを、今日では奇跡的とも、また、幸運であったとも感じるのである。

・わが国の芸術・文化を海外に紹介

さて、本題の国際芸術見本市に入ろう。今でこそ、「芸術見本市」という言葉はどこかで耳にすることがあるかも知れないが、おそらく当時はこのような言葉は他には存在しなかったのでないだろうか。

社団法人国際芸術見本市協会は別名を英語でJapan Art Festival Association, Inc.(ジャパン・アート・フェスティバル・アソシエーション)とも称した。当時、芸術振興に関心を持つ超党派の国会議員の有志によって結成されていた芸術議員連盟(会長は中曽根康弘衆議院議員)のメンバーが中心となって、なぜか文部省や外務省ではなく、通商産業省の認可団体として1965(昭和40)年に発足したばかりの組織であった。 

初代の会長は永野重雄(富士製鐵社長)、一年後には副会長の藤井丙午(八幡製鐵副社長)に引き継がれた。顧問に中曽根康弘、駒村資正、山際正道、理事長は民社党代議士で、若い頃から文学、絵画をよくした麻生良方であった。理事には芸術議員連盟に属する各党両院議員や美術評論家が、作品選考委員には原弘、今泉篤男、富永惣一、野間清六、河北倫明、嘉門安雄、久保貞次郎、野間清六、岡田譲、小山富士夫、山田智三郎などの美術評論家や建築家丹下健三が名を連ねた。

芸術見本市の名が示すように、また、国の支援を受けるとは言いながら、所轄官公庁が通商産業省であり、日本貿易振興会(JETRO)であることは、この事業が単に文化交流事業、芸術紹介に留まらないということであった。勿論、わが国の文化・芸術を広く海外に紹介しようという大きな目的があったのだが、それ以上に、将来わが国の美術品の海外市場を開拓しようという意図があった。したがって事業の予算措置には、ジェトロを通じての公的補助金と財界(芸術、文化の振興や国際交流に熱心な企業、業界団体など)からの寄付金に大きく依存していたのだった。

2007/01/21

第一部 国際芸術見本市の回想(4)

三、ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)

・第一回ジャパン・アート・フェスティバルをNYで開催

将来の展望はともかく、発足当初の協会の当面の目標は、まず米国はニューヨーク、マンハッタンのど真ん中で、大規模な日本芸術祭(ジャパン・アート・フェスティバル)を開催することであった。将来は新進作家の発掘をも視野に入れながら、当面は既成の一流芸術家による絵画、版画、彫刻、書などの美術、人間国宝クラスよる陶磁器、漆器、金工、木竹工、染織、織物などの伝統工芸品を展示(場合によっては販売)し、さらには家元クラスによる茶道、華道のデモンストレーションを現地で行おうというものであった。そこには、若手の新進芸術家の発掘を目指すところもあったが、主たる目的は、限られたジャンルではあるが、わが国の芸術文化を最高度の環境条件の中で展示、紹介し、将来はそれらの美術作品、工芸品の市場を開拓して、その輸出振興を図ろうというものであった。

 第一回ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)巡回展のトップを切る「ニューヨーク展示会」は、昭和41(1966)年3月22日から4月23日まで約一ヶ月間開催された。時はJ・Fケネディ大統領が暗殺されて未だ二年余り。後継のリンドン・ジョンソン大統領のもとベトナム戦に対するアメリカの軍事介入は、首都ハノイを含むいわゆる北爆を契機にますます深みにはまりつつあった頃であった。

われわれ事務局スタッフがニューヨークに到着したのが2月21日であるから、開会のほぼ一ヶ月前に現地入りしたことになる。膨大な貨物の陸揚げと移送、大掛かりなインスタレーション(会場構成)工事、事前の広報活動、関係諸機関や後に述べる関係業者との折衝などで、結果的には一ヶ月のリードタイムは決して長すぎはしなかった。

・大型使節団が訪米

 三月二十二日のニューヨーク展開会に先立って、3月14日には日本から大型文化使節団が渡米した。団長は国際芸術見本市協会副会長藤井丙午。団メンバーとして、協会顧問の中曽根康弘、理事長麻生良方、石田博英、木村武千代、佐藤観次郎、加藤清二など芸術議員連盟に属する超党派両院議員、会場設計を担当した丹下健三、選考委員の美術評論家、芸術愛好市民など四十数名が参加した。使節団は会場近くのウォルドルフ・アストリアホテルに滞在した。

アート・フェスティバルの会場に当てられたのは、ニューヨークはマンハッタンのビジネス街パークアヴェニューに面して建つユニオン・カーバイド・ビルディング(現チェイス・ビル、JPモーガン・チェイス本社)の一階から二階に吹き抜けるメインロビーであった。

 開会前日、3月21日の夜にはプレビューを兼ねての大規模なレセプションが開催された。米国の美術家、文化人をはじめ、政財界、学界、芸術界全般、メディアなどから、多くの著名人が招待されて華々しい幕開けとなった。ジャパン・ソサイエティ(Japan Society)の会長で、この展示会にも協力を惜しまなかったジョン・D・ロックフェラー三世も主賓の一人であった。松井明国連大使、当時ニューヨークなど米国内に在住した池田満寿夫、靉嘔、堂本尚郎、富岡惣一郎などの出展作家、日本からも版画の棟方志功や各分野の伝統工芸作家等が参加、出席者は約千三百人の盛況であった。

美術・工芸品の展示と華道・茶道の実演(裏千家・千宗室ほか)の為の会場インスタレーションは丹下健三によって設計された。会場内の壁面を飾る巨大写真パネルのデザインは粟津潔。会期中を通じて会場に流される現代音楽は、一柳慧、武満徹による作曲。アート・フェスティバルのポスターのデザインは粟津潔、展示作品を紹介するカタログの装丁は原弘など、いずれも当代一流といわれる人々が担当した。

展示作品の出品・制作依頼は国内のみならず海外在住の有名作家にも及んだ。展示された美術作品には、サイズ・重量が数百号・数十キロを超える絵画や彫刻などの大型作品も含まれた。これらの美術作品や多彩な伝統工芸品の作家達は全国各地、海外に散在していた。国内・海外からの展示作品やインスタレーション(会場構成)用資材の集荷、輸送、梱包、通関、船積み等の一切は大和運輸美術梱包部門が担当した。丹下設計による膨大な会場構成資材の制作には乃村工芸が当った。秋田木材をふんだんに用いて、水に流れる「筏」をテーマとしたものであった。横浜からの船積み貨物の総量は70トン近くに達した。

・ベアテ・ゴードンさん

現地ニューヨークでは、フェスティバルの協力者として日米両関係機関の仲介役として活躍してくれたジャパン・ソサイエティのベアテ・シロタ・ゴードン夫人(Mrs. Beate Sirota Gordon) を忘れることはできない。 

ゴードン夫人は、占領時下マッカーサー司令部によって日本国憲法が起草された時に、米国側から参画した唯一の女性スタッフメンバーであったとして、近年になって日本でもその名前がよく知られるようになった。当時彼女は二十歳を過ぎたばかりであったが、特に第二十四条の人権条項「家族生活における個人の尊さと男女の平等」の制定に深く関わったことで有名である。

両親共に白系ロシア人で、父はレオ・シロタという音楽家であった。ウイーンで生まれて幼少の頃は家族とともに日本で暮らし教育を受けた。英語、日本語はもちろん、数ヶ国語に通じたマルチリンガルである。その頃、在米の日本公館、米政府内の対日部門、日米友好機関の関係者の間で彼女の存在を知らないものはないほどであった。後述するように、まさに芸術見本市協会にとってはうってつけの助っ人であったわけだ。

アート・フェスティバルが開催されたとき、彼女は四十歳を過ぎたばかりの働き盛りであった。八十歳を過ぎた現在も、マンハッタン・リバーサイドにある古い風格のある当時のアパートメントに住んでいる。

なお、右に述べたように、この事業の性質上、在ニューヨーク総領事館(東郷文彦総領事)と日本貿易振興会(ジェトロ)のジャパン・トレードセンターも、このプロジェクトに企画段階から関わりをもつことになり、全面的な支援をしてくれることになった。

   追記= 東郷文彦は後に外務事務次官、駐米大使を務めた。

第一部 国際芸術見本市の回想(5)

四、アート・フェスティバルの現地運営 = 情報不足に泣く

協会の構成メンバーとして超党派の有力政治家、財界人、著名美術評論家等を巻き込んでいたとはいえ、組織維持のための財源確保と事業の実施運営は、事務局にとって容易ではなかった。また、膨大かつ多彩な作品群や展示用資材の輸送、輸出入、通関などは専門業者に委ねはしたものの、このような形態の展示会が未だ一般的ではなかった当時には、未知の困難な問題が連鎖的に持ち上がるのであった。特に現地で業者を雇用する際の役務提供契約や労働組合制度などは、彼我の法律や慣行の違いもあって、実務に当る事務局スタッフを大いに泣かせたものであった。われわれ事務局スタッフにとってとりわけ未経験かつ未知であったことは、現地の労働組合の仕組みや慣行についてであった。

米国での展示事業に付随する最も基本的な業務としては、本船が現地ニューヨークに着いた時点での貨物(展示作品や会場構成資材)の陸揚げ、輸入通関、陸上輸送、搬入などの現地作業がある。われわれは、この一連の業務を国内外で美術梱包に実績を持つ大和運輸に委託した。当時、大和運輸は米国のアライド・ヴァン・ラインズ(Allied Van Lines) のメンバーであるアジアティック・フォーワーダーズ社(Asiatic Forwarders・本社サンフランシスコ)に米国内の業務を委託していた。その結果としてこれら一連の運送業務がアライド・ヴァン・ラインズのメンバー企業に一括委ねられたのであった。

・現地労働組合の反発

 職種別労働組合、産業別労働組合が主流をなす米国ユニオンの事情は、日本でもある程度は知られていたが、それが実務の場においてどのような現象として現れるのかについては必ずしも十分な経験を積んではいなかった。このような事情は海外ビジネスに経験のない我々の知るところではなく、国内はもちろん在米の関係機関からも特段の警告やアドバイスを受けなかった。

アライド・ヴァン・ラインズの独占的な業務請負に対して、港湾労働者、他の運送関連業者のユニオンから猛反発がおこった。港での荷揚げ作業、展示会場であるユニオン・カーバイドビルへの陸上輸送などに反対してビルの各出入り口には大きなピケラインが張られ作業は著しく停滞した。当方が契約した会場設営業者はすでに多数の労働者や職人を手配してスタンバイをしていたが、ピケラインに阻まれて作業を始めることができない。作業の停滞による無駄な人件費などのコストが情け容赦なく発生する。しかし契約業者は、それは自分達の責任ではないと主張する。

初めて米国での大仕事をする我々にとっては、寝耳に水のような話であった。開会に間に合わせるためには一日たりとも猶予は許されない。結局、われわれの求めに応じてニューヨーク総領事館からワシントンの日本大使館へ、そして米国務省への申入れもあって解決が図られた。その間のやり取りの詳細はわれわれの知るところではないが、日米関係者の努力の結果でまさに滑り込みセーフという事態であった。

・関税と展示品の販売

 われわれにとって未知、未経験のもう一つの問題は、輸入に伴う関税であった。当初は人間国宝クラスの伝統工芸作家の作品といえども、米国への輸入に際しては一般の商品(general merchandise)と看做されて、雑貨並みの関税を掛けられ兼ねないような状況であった。税関吏個人によっても解釈が異なるとか、先方が日本の伝統工芸や文化について必ずしも十分な知識を持っていないことが原因で、予想もしない問題が惹起されるのであった。これらの問題を解決するために、まず、わが国における伝統工芸作品について詳しく説明をするとともに、作家一人一人の経歴や、国内外での展示暦、入賞歴などの実績を提示して、税関と折衝し彼らを説得することが事務局スタッフとしての筆者の役割となった。

さらに、アート・フェスティバルの趣旨として現地で展示作品を販売しようとすることが別の大きな問題をもたらした。通常の見本市の場合には、展示物品や展示資材は保税扱となり無税で輸入が許可される、ただしこれら一時輸入(temporary import)の対象となる物品は、必ず再輸出(re-export)されることが条件となっている。

この場合でも少なからぬ保証金を預託することが義務付けられる。そして展示会場も、保管倉庫もすべて保税地域に指定され、その結果作品を販売することはますます難しくなってしまう。

しかし、こちらは作品を売りたい、売らなければならない。出品者である作家もそれを期待している、また、現地の美術館、大学、ギャラリー、画商、一般の愛好家などからも購買の希望が出て来る、となると話が難しくなる。

売りませんという当初の約束を破って作品を販売した場合には、ペナルティ(罰金)が課されることが決っている。しからば最初から買主にペナルティを負担させて、すなわち売価にその分を上乗せして作品を売り渡すことが問題解決策の一つであるという姑息な結論に到達したのは、税関との折衝にかなりくたびれ果てた末であった。とは言うものの、販売は致しませんという輸入時の誓約に対する信義の問題を如何に考えるかということがわれわれの大きな悩みでもあった。

それでも結論から言うと、わが国の芸術文化を広く紹介し、併せて多くの素晴らしい作品を全米各地の有名美術館やコレクターに残すことによって、作家を含めて多くの関係者に喜んでもらい、それなりの評価を得ることができたのであった。

窮すれば通ず、案ずるより産むが易い、を実体験したのであった。幸いなことに、やがて米国各地の税関当局でも他地域での実績を尊重して、先例に則してルールの解釈をするという態度の変化が見られたのであった。

五、その後のジャパン・アート・フェスティバル

当初はとりあえずニューヨーク展のみの開催に全力を傾注したアート・フェスティバルであったが、結果的には引き続いて米国内の他都市でも開催されることになった。それは日本側の希望でもあったが、この企画を聞きつけた米国内の多くの美術館、大学、美術ギャラリー、百貨店などからの開催の申し出があったからである。

・巡回展になったアート・フェスティバル

 結局、1966年(昭和41年)3月にニューヨークでその第一歩を踏み出した第一回ジャパン・アート・フェスティバル(3月22日~4月23日)は、その規模や内容をすこしずつ変えながらも、同年8月にピッツバーグ、11月にシカゴ、翌67年1月にサンフランシスコへ巡回した。

さらに第二回として、67年8月にホノルル、10月にはヒューストン、翌68年1月にニューオーリンズへ巡回、そして同年には第三回としてメキシコはメキシコ・シティ、グアダラハラ、再び米国に戻り11月にモーリーン、12月にセントルイス、69年には第四回としてロサンゼルス、フェニックスなどの全米主要都市をほぼ四年間で巡回することになった。

いわば芸術界の重鎮ともいうべき人々によって企画された当初のアート・フェスティバルも、回を重ねるにつれてやがて新進気鋭の参画が進み、作品にも若手作家の作品が含まれるようになって行った。因みに、1968年の第三回フェスティバルの選考委員会には、原弘、針生一郎、乾由明、今泉篤男、嘉門安雄、河北倫明、小山富士夫、久保貞次郎、前田泰次、三木多門、中原佑介、岡田譲、東野芳明、富永惣一、山田智三郎が名を連ねていた。

なお、現地実演を通じての茶道、華道の協力として、裏千家、池坊、古流松藤会、嵯峨流、小原流、草月流などがそれぞれ家元をはじめ幹部クラスを派遣し、その都度好評を博した。

四年間の国際芸術見本市協会在職中に、私がかかわった米国内のジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)の開催主体もしくは共催相手は、形態別に見ると左記のとおりであった。

1、  国際芸術見本市協会の単独主催=ニューヨーク展(ユニオン・カーバイドビル・Union Carbide Bldg.)、ホノルル展(イリカイホテルThe Ilikai)、ヒューストン展(ヒューストン・ナチュラルガス・ビル・Houston Natural Gas Bldg.)

2、  美術館との共催=シカゴ展(シカゴ美術館・The Art Institute of Chicago)、サンフランシスコ展(デ・ヤング美術館・M.H. De Young Museum)、フェニックス展(ロスオリーヴォス美術館・Los Olivos Museum)

3、   百貨店との共催=ピッツバーグ展(ギンベル百貨店・Gimbel Brothers)、ニューオーリンズ展(メゾン・ブランシュ百貨店・Maison Blanche)、ロサンゼルス展(メイ百貨店・May Co.)

4、      一般企業との共催=モーリーン展(ディアー・アンド・カンパニー・Deere & Co・農機具メーカー.)、セントルイス展(ペット・インク・Pet Inc.・食品メーカー)

ところで、わが国では一流デパートでの美術展や伝統工芸品展の開催はめずらしくない。また、立派なギャラリーを持つデパートもある。しかし当時の米国では、そして多分今日でもそうではないかと考えるが、商品の売買を本来の目的とする百貨店と美術鑑賞とは相容れないものと考えられていた。したがってアート・フェスティバルを百貨店で開催するについては、共催相手側はともかく、世間一般の眼にはかなり異様に映ったようで当初は批判的意見すらあった。しかし、実際には買物のついでに美術を鑑賞する人も多数あり、また、わざわざそのために足を運ぶ人もあって、結果的には極めて好評を博し、多くの人に喜ばれたのだった。買い物客を含む一般大衆にも、芸術がより身近なものであることを改めて認識させる結果になった。

 なお付記すれば、海外でのアート・フェスティバルに先立って、東京の国立近代美術館ではその都度国内展示会が開催された。1965年12月の第一回国内展に始まって、1971年に至るまでの毎年(1966年を除く)、計六回にわたって「日本芸術祭国内展示」として開催され、約3万人の入場者が記録されている。

米国内巡回以後は、国際芸術見本市協会の財政基盤、事業内容、役員構成、事務局スタッフも大きく変わり、展示会開催地域は南米、欧州と広がりをみせ、さらに1978年にはその名称も変わり発展的解消を遂げた。(文中敬称略、組織名称・肩書きなどは当時のもの)

2007/01/22

第二部 ニューヨーク展(1)

第二部 国際芸術見本市始末記 = 古い日記から

このころ筆者は満三十歳になったばかり、妻と、間もなく三歳の誕生日を迎える長男との三人で埼玉県北足立郡大和町(現和光市)に住んでいた。

昭和四十年の暮れには、教務主任兼講師として約三年半勤務したロイヤル米会話学院を正式退職して、新年度からは社団法人国際芸術見本市協会への入職が決定していた。年明けの正式採用を待たずに、前年度末までに何度か、東京は千代田区麹町の協会事務局へ足を運び、麻生良方理事長、事務局長をはじめ同僚スタッフの面識も得ていた。したがって、第一回アートフェスティバル・ニューヨーク展の進捗についてはほぼ状況を把握していたのだった。

(日記文中のカッコ内部分は今回追記したもの。組織名称・肩書き等は当時のもの、一部人名には仮名を使用)

第一回ジャパン・アート・フェスティバル=ニューヨーク展

昭和41(1966)年1月1日(土)快晴 

 一年の計は元旦にあり。恒例の京都への帰省も昨年の十月に済ませており、正月三が日は久しぶりに自宅でくつろぐことになった。終日在宅。取り立ててなすべきこともなく英明(長男、あと三週間で満三歳)と散歩するなど、いささか手持ち無沙汰な正月だ。正月だからといって、なにか変ったことを期待する方が無理だろうけれど。

協会事務局風間嬢より速達書留で朱書「河北倫明氏の原稿」が届く。ニューヨークにおけるジャパン・アート・フェスティバルのためのカタログの序文。明日、もしくは明後日中には翻訳しておかねばならない。

  追記= 河北倫明氏は東京国立近代美術館副館長、協会理事

夕刻、かっちゃん(義妹)来る。夜は三人でゲーム、トランプなどして過す。今年一年が、今日の天気のように晴朗、快適であってほしいものだ。忙しいのはいくら忙しくてもかまわないが、健康に留意が肝要だ。あとは専門知識を増やして仕事に習熟し、将来のいかなるチャンスにも備えることだ。

1月2日(日) 快晴、風やや強め

 終日在宅、河北氏のカタログ挨拶文の翻訳を完了した。かっちゃん午後三時頃帰る。夜、銭湯に行く。これから手紙を一、二通書いてテレビでもみるつもり。

1月3日(月) 快晴、暖

 午前中は戸外で英明と遊んだり、時には泣かせたり。午後二時ころ明礼節子さん(英会話個人レッスンの生徒)来訪。七時に帰る。夜はテレビ。 休日も残り一日となった。新しい仕事を控えての休日は、どうも気分的に落ち着かない。これは一体どういうことなのだろうか? 

追記= 明礼節子さんは南早稲田で学生相手のアパートと声楽教室を経営していた。元歌謡曲歌手。米会話学院時代の生徒でもあった。

1月4日(火) 雨

 正月三ケ日が過ぎて、とうとう雨が降り始めた。十一時すぎまで寝てしまう。午後、英明、世津子の三人で大和町駅(現東上線和光市駅)近くまで散歩する。タバコを三箱買って帰る。夜はカレーライス。正月料理が続いた後にはうまいものだ。いよいよ明日から仕事開始、今年は忙しくなりそうだ。風呂。

・全員が役付きの事務局

1月5日(水)快晴、暖かい

 社団法人国際芸術見本市協会(ジャパン・アート・フェスティバル・アソシエーション・JAFA)初出勤である。事務局長のほかには青柳財務部長、風間展示部長、安藤嬢(経理担当)と私、ほぼ全員が役付きの計五名の小世帯だ。展示会カタログ翻訳原稿を六本木のイースト・パブリケーション社(金澤朗氏)まで届ける。

追記= 金澤朗氏は国際基督教大学講師。ロイヤル米会話学院の主任講師でもあった。協会への転職は金澤氏の紹介による。ザ・イースト・パブリケーション社を仲間と設立、英文雑誌「The East」を発刊し始めたばかり。

1月6日(木)快晴

 暖かい。もっぱら翻訳作業。 六本木のイースト・パブリケーション社へカタログ制作依頼のための英文原稿を届ける。残業。夕刻より大和運輸(作品・資材運送担当会社)、乃村工芸(会場構成資材制作担当会社)などのスタッフが来て午後十時二〇分まで打ち合わせる。十一時半帰宅。

1月7日(金)快晴

 暖かい。睡眠不足だ。ニューヨーク(ゴードン夫人宛)への手紙を翻訳、タイプなど。差出人は理事長麻生良方。午後、イースト・パブリケーションを訪問。事務所に戻り九時半まで残業。十時〇分帰宅。いささか疲れが溜まってきた感じがする。

1月8日(土)快晴

 ホテルニューオータニへ国際電報を打ちに行く。Council on Foreign Relations(米国外交審議会)による中曽根康弘議員招聘に関する事務連絡。宛先はゴードン夫人。十二時半にイースト・パブリケーションを訪ねる。午後三時半頃まで雑談して辞す。

午後、世津子は英明を連れて阿佐ヶ谷へお義母さんを見舞いに。ロイヤル米会話学院(前職場)へ立ち寄る。高田馬場駅で世津子、英明と待ち合わせて不二家へ行く。再び協会事務局へ戻り一仕事。午後六時に帰宅。

1月9日(日)快晴

 十時起床、散髪、朝風呂。一日中寒い。 

1月10日(月)快晴

 安藤嬢、混雑の新宿駅ホームで怪我をしたとか。忙中閑、終日これという仕事もなし。

1月11日(火)快晴

 暖かい。四月初旬の陽気とか。安藤嬢、学生アルバイトの芦田嬢両人が休みをとる。今日は、事務局は事務局長を入れても四人だけ。NY(ゴードン夫人)宛手紙を作成。

六時半帰宅。夜はテレビ。三沢市で大火、三百戸消失とか、死者の無かったことが不幸中の幸い。十一時半就寝。

1月12日(水)曇り

 午前中はNY宛手紙作成。午後、大和運輸美術梱包所の安川所長と赤坂のユナイテッドステーツ・ライン(United States Line)へ。船積みの打合せ。続いて東京税関(品川)へ挨拶に行く。

1月13日(木)

 十一時、大和運輸の安川所長、風間さんと三人で再びU・Sライン(赤坂)へ。展示貨物の船積み(横浜出港)は二月三日と決定した。ニューヨーク到着予定は二月二十三日だ。午後、ザ・イーストの金澤朗氏来る。カタログ校正の件について打ち合わせる。

事務局長、風間さんとの三人で築地の東急ホテルの粟津潔デザイン事務所へ。依頼している展示用ポスターの草稿を下見する。来年度大蔵省予算の折衝にかかわる青柳さんの残業につきあって九時過ぎまで事務所で待機する。

帰途、駅前で寿司を買って午後十一時帰宅。

1月14日(金)

 電車延着のため十五分ほど遅刻して事務局に出勤。風間嬢欠勤。午後二時、大和運輸安川所長が来訪し、事務局長らと一緒にホテルオークラへ行く。アライド・ヴァン・ラインズ=アジアティック・フォーワーダーズ社カミンズ社長と展示品等の輸送について打ち合わせる。午後五時半までかかる。後、ホテルのカクテルラウンジへ。

1月15日(土)

 午前中は早稲田、明礼さん宅へ。二時間ばかり英会話レッスンのアルバイト。世津子、英明は阿佐ヶ谷のお義母さん宅へ行く。午後五時頃に高田馬場駅で世津子、英明と合流して帰宅する。夜はテレビなどみて過す。

1月16日(日)快晴のち薄曇

 午前中は英明を連れ出して戸外で遊ばせる。いささか風邪気味だ。風邪薬を服用する。風呂。夜はテレビなど。

1月17日(月)快晴、温暖

 風間、安藤両人が欠勤。午前中はもっぱらニューヨークのゴードン夫人からの手紙を翻訳する。午後、金澤朗氏来訪。ジャパン・アート・フェスティバルのカタログ制作について打ち合わせる。事務局長と三人でリド(近所の洋食屋)にて昼食。午後、大和運輸の安川所長、乃村工芸の前田部長が来訪。

夕方、六本木、イースト・パブリケーションまで原稿を取りに行く。タクシーで往復。七時半帰着。ニューヨーク(ゴードン夫人)への返信を翻訳する。 

2007/01/23

第二部 ニューヨーク展(2)

1月19日(水)

 昭和通りの大和運輸本社会議室で、貨物(展示作品、会場構成資材)の輸送についてアジアティック・フォーワーダーズ社長カミンズ氏(Mr. Cummins)を交えての打ち合わせ。午後いっぱいかかった。

1月20日(木) 風強く寒い

 給料日、手取り48,900円。今日は英明の誕生日(三歳)。ケーキにローソクを三本立てる。

1月21日(金) 晴

 ゴードン夫人から給与支払い請求の電報が外務省に入ったらしい。給与支払遅延の釈明のために、午前中外務省文化事業部長を訪ね説明する。近日中に対処することを伝える。

展示物輸出に関する情報収集のため、午後、大和運輸美術梱包所の安川所長と日本橋の東京銀行貿易相談所へ行く。一般的な話に終始したのはやむを得ないだろう。大和運輸の車で事務局に戻る。ホテルニューオータニへ国際電報を打ちに行く(ゴードン夫人宛)。

タクシーで四谷駅まで行き、帰途、高田馬場ロイヤル米会話学院へ立ち寄る。職員室でしばらく話して、午後九時に帰宅。

1月22日(土) 晴

 風間、芦田(アルバイト)の両人欠勤。午前中大和運輸の安川さん来るが、米大使館は休館とのことで予定を変更する。

午後、事務局長と、学生アルバイトの越智さん(本日より勤務。某代議士の紹介とか。)を連れて三人で王子の大和運輸倉庫までタクシーで行く。初めて作品や展示用資材などに対面する。大小絵画展示用パネル、巨大壁面写真パネルの製作状況、テーマ・タワーの組み立てなどを実地検分する。メインテーマは秋田木材の合板をふんだんに用いた「筏」である。制作には実に金がかかり、輸送上は嵩張ることこの上なし。

   追記= 丹下設計による絵画・版画など平面作品の展示方法は、従来の壁掛け方式ではなく、各作品に裏パネルを付し、そのパネルを一本ないしは複数の支柱が支えるという、いわば立て看板方式。会場フロアーを川面にみたてた「筏」はその基盤となる。

現場で、丹下健三、神谷、木島(ウルテック=丹下健三・都市建築設計事務所)、前田、杉本(乃村工芸)の諸氏と打ち合わせる。午後六時半、辞して三人で都心に戻る。

早稲田で車を降り、その足で明礼さん宅へ。英会話レッスン謝礼五千円を受け取る。

1月23日(日)薄曇

 午後かっちゃん(義妹)留守番に来てくれる。英明を預けて世津子と共に新宿へ出かける。三越裏「つな八」で天婦羅定食を食べる。出張に備えて京王デパートで背広を注文(27,800円)。

 かっちゃん七時半頃帰る。電話で、中野区役所へ渡航手続き用戸籍抄本の郵送を依頼する。今夜はこれからテレビでもみるつもり。

1月24日(月)快晴、風強く寒い

 本日より九時半出勤となる。風間、芦田欠勤。

 アメリカ大使館への説明は、大和運輸安川さんに依頼して、午前中は麻生理事長と外務省へ行き文化情報局長と会う。ニューヨーク展準備の進捗状況について説明、米国内在外公館の協力を改めて要請する。

ニューヨーク展以降の共催相手となるギンベル百貨店(The Gimbel Brothers)、シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)、M・Hデ・ヤング美術館(M.H. De Young Museum)、)へそれぞれ始めての企画提案書を作成、郵送する。

午後、六本木、ザ・イースト パブリケーション社へ。金澤朗氏と、展示会場での雑誌ザ・イースト(The Eastは同社発行の季刊誌)の現地販売について打ち合わせる。

1月25日(火)曇り

 勤務終了後、事務局長、青柳氏の三人で有楽町「大雅」へ行って、河豚をたらふく食う。ふぐ刺し、ふぐチリなど。お二人はひれ酒も。その後、銀座八丁目辺りのバー三軒を回る。辛うじて東上線池袋発、最終電車成増行きに間に合う。成増よりタクシーで帰宅、午前二時就寝。

1月26日(水)快晴

 暖かい。午前中は、事務局長、青柳氏の三人で衆議院議員会館の中曽根代議士の事務所へ。秘書の上和田義彦氏を紹介される。暫時雑談。

1月27日(木) 晴

 十一時、メーシー百貨店大阪支店長ブザーテ氏が来訪する。同社の極東祭(Far-east Festival)における展示につき協力参加をして欲しいとのこと。麻生理事長、事務局長と四人で打合せる。

 午後四時、麻生、事務局長、風間、私の四人で王子の大和運輸倉庫へ向う。作品、展示用資材、会場構成資材の梱包状況を検分。

 夜、事務局長、風間、安藤、越智の五人で東京プリンスホテルへ行き、ロビーのコーヒーショップで打合せをする。サンドイッチとジュースなど。 

1月28日(金)

 終日何となく打ち過ぎる。ゴードン夫人へ手紙。ゴードンさん宛は連日だ。緊急時を除いて国際電話の使用は控えている。写真館で渡航用の写真を撮る。

1月29日(土) 晴

 事務局長とスエヒロで昼食。食事中も海外出張の話に終始する。

午後一時に原宿のウルテック(URTEC)丹下事務所へ。各関係者による総合会議を開催する。出席者はウルテックから丹下教授、神谷、木島の三氏、乃村工芸、大和運輸、事務局。関係者からの現状報告。

夜七時、早稲田、明礼さん宅へ回る。英会話レッスン。

1月30日(日) 晴

 午前中英明と散歩に出る。午後、英明、世津子と三人で新宿へ。京王デパートで背広の仮縫いをする。屋上でしばらく英明を遊ばせ、のち高田馬場へ回り、東宝パーラーで夕食。二人と別れてスクールバスで早稲田の明礼さんを訪ねるが、下宿棟には学生達もいなくてすぐに辞す。午後六時に帰着。

やっと電話機を取り付ける。しかし開通は三月とのこと。

   追記= 当時、電話を引くには、電話電信公社から電話債券を購入しなければならなかった。十万円位であったと記憶するが、直ちに転売が可能であったので実際には金銭の授受はなく書類上の手続きのみで済んだ。ただし、実際に電話が開通するまでには一~二ヶ月程度は待たされた。

1月31日(月) 晴

 暖かい。午前中、有楽町の東京交通会館へ旅券申請に行く。ついでに同所で渡航のための予防注射もする。

事務局長、風間、十返千鶴子女史、ニュージャパントラベル(旅行代理店)家子氏の五人で銀座中華第一楼へ行き昼食。 

・パーティはブラックタイで

 銀座セントメリー靴店で、フォーマルシューズ(イタリー製マレリ)を買う。一万円也。 明日はタキシードを注文の予定。これで支度金は全て飛んでしまうか!

追記= 当時の日本社会ではタキシードを着用する機会は極めて稀であったが、アメリカでは男性用の夜会用の略式礼服として多用されていた。黒い蝶ネクタイをつけるところからこの服装を「ブラックタイ」とも言い、パーティの招待状などにも書き添えて、服装を指定したものである。

タクシーで四谷まで。十返女史の車(いすずベレット)に乗り換えてホテルニューオータニへ行く。女史はニューヨークまで同行する予定。コーヒーショップで海外旅行のことなどしばらく話す。午後四時、事務局に戻る。

 永野重雄会長名義で、ジャパン・ソサエティの協力に対する礼状をロックフェラー三世(John D. Rockefeller,3rd)宛に出す。

2007/01/24

第二部 ニューヨーク展(3)

2月1日(火) 晴、暖かい

 今日はもっぱら手紙作成の作業で暮れる。ロックフェラー三世へは中曽根康弘議員、リンゼイ(NY)市長には麻生良方理事長名義で作成。いわば事前の挨拶状だ。展示会場説明文翻訳の件で六本木、イースト・パブリケーションへ行く。

タキシードの寸法取りに業者が事務所へ来る。帰途、高田馬場ロイヤル米会話学院に立ち寄る。夜、テレビ「事件記者」をみる。

2月2日(水) 晴れたり曇ったり

 午前中、ホテルニューオータニへ行きニューヨークのゴードンさんへ国際電報を打つ。

船積みの一部は、U・Sライン、パイオニアミンクス号(Pioneer Minx)に決定する。NY到着は二月二十四日の予定だ。

森田子龍氏(書家)来訪、風間君との三人でホテルニューオータニにて食事をする。

夕刻、大和運輸安川、事務局長、風間の諸氏と品川の東京税関へ挨拶に行く。事前に仁義を切って置くということらしい。帰途、銀座セントメリー靴店に立ち寄り注文の靴を受け取る。渡航支度金65,450円を支給される。

2月3日(木) 晴、暖かい

 昼前から大和運輸安川さん、風間君と横浜へ向かう。アジアティック・フォーワーダーズ事務所へ。スタッフのジョージ・中道氏との初顔合わせ。シルクホテルで昼食。六時に協会事務局へ帰着。

・無駄になったカタログ

 納品された展示会用カタログの不出来がはなはだしい! 校正がでたらめだ。どうしてこういうことになったのか、これでは使い物にならない。廃棄あるのみ。

出張支度のために協会より旅行鞄を自宅へ持ち帰る。

2月4日(金) 晴、暖かい

 正午頃、青柳氏と米国大使館関税部へ挨拶に行く。展示用貨物輸入についての事前情報の提供と便宜のお願いであるが、担当の日本人館員は余り関心が無さそうだ。果たしてどの程度の効果があるものか疑問に思う。

夕刻、事務局長、風間、芦田、安川(大和運輸)の諸氏と大和運輸の車で横浜埠頭へ行く。停泊中のパイオニアミンクス号の積み込み作業を見る。船長室で船長、一等航海士らと話す。話し好きの如才ない船長だ。午後十時過ぎ横浜を発ち、高田馬場まで大和運輸の車で来る。午前零時過ぎに帰着。

全日空機行方不明のニュース(東京湾上空)。130名絶命か?

2月5日(土)

 午前中、青柳さんと日本橋の日本銀行外国部を訪ねる(外貨持ち出し許可の件などについて質問)。このあと虎ノ門、ジェトロ(日本貿易振興会)に立ち寄り、事業の進捗状況を説明、ニューヨーク・トレードセンターの協力を改めて要請する。富士銀行本店外国部へ行き外貨送金手続きなどについて問い合わせる。

今日は給料日、51,492円(2月分の前渡しだ)。午後三時に終業。

新宿の龍生堂へ行き旅行のための薬品などを購入する。伊勢丹でスポーツシャツ、ワイシャツ三枚、ネクタイなど買う。

三光町からタクシーで早稲田、明礼さん宅へ。英会話レッスン。

京都へ電話する。信定(弟)が出て、羽田見送りのために二月十九日に母と上京するとのこと。

2月6日(日) 晴れたり曇ったり

 英明と散歩する。散髪屋は満員なので断念する。午後、東上線大山駅まで行き、ヨーカ堂で旅行用品などを調達。後、池袋へ回り西武百貨店で下着、パジャマなど買う。風呂。

2月7日(月) 風強く寒い

 夕刻、赤坂に出て事務局長、風間、安藤、小林克己さん(中曽根代議士秘書)らと朝鮮料理を食べに行く。その足で新宿伊勢丹裏のフラメンコバー「ギターラ」へ。スペイン音楽とフラメンコ。夜十一時半に帰宅する。

2月8日(火) 晴、暖かい

 九時三十分、青柳、風間、私の三人は虎ノ門ジェトロにて合流する。会議室で加藤氏らを囲み芸術見本市に関連して起こりうる問題点等について質問をする(午後一時三十分まで)。これは事務局長の発案なり。結局、一般論に終始する。

赤坂プリンスホテルへ直行、ロビーで乃村工芸、大和運輸、ウルテックの神谷、木島の諸氏と話す。米国から帰国したばかりの乃村工芸の杉本氏が現地の状況報告をする。ジャパン・ソサエティの支援体勢などにつき、ゴードン夫人からの情報がより具体的になり、明確になる。杉本氏は、現地設営業者らとも事前打合せをしてきたとのこと